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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年11月号

文学にみる障害者像

自伝に見る障害女性の生き方 大石順教・中村久子

中野惠美子

近代小説がさかんに書かれた19世紀が「小説の世紀」であったとするならば、「20世紀は自伝の世紀」だったと言われる(佐伯)。日本でも1960年代以降、さまざまな人が自伝を書くようになり、障害ある人たちの作品も多い。そのなかに家族を離れ、新しい人間関係を築きながら、人生を切り開いていった明治生まれの2人の女性のものがある。

画家、書道家、宗教家として活躍した大石順教(じゅんきょう)(1887年~1968年)

大石よね(後の順教)は、明治21年大阪道頓堀に生まれ、13歳で堀江の遊郭「山海楼」の養女となった。日露戦争のさなか、座敷に呼ばれて舞妓として芸を披露するという華やかな生活を送っていたが、17歳の時に養父が起こした殺傷事件に巻き込まれて両腕を失う。一家の稼ぎ手であったよねは、その後、「6人斬り生き残りの女」として寄席の高座に上がり、受傷した経験を語り、一座のスター的存在となる。

19歳のある日、巡業先でカナリヤが餌をついばむ様子に啓示を受け、口に筆をくわえて文字を書くことを思い立つ。「両手をなくしても泣かなかった」が、「幼い時から遊芸ばかりを仕込まれて、思いを表す一つの文字も知らない」ことに気づいた時、「初めて心の底から泣いた」という。近くの小学校に飛び込んで教えを乞い、「不具者だから学んで世の中に何かを残さねばならない。不具者こそ学んでひとり立ちのできるように学問が必要です」、「このような思いでいるのは私一人ではないはず、不具の子供たちの入学を許してやってください」と訴えたという。熱意に押された校長が投宿先に先生を派遣してくれて、よねは、文字を獲得する。この時のことは「その日以前の私と、その日以後の私とは、全然違った者となっていた」と、感動的に語られている。

24歳、「精神的な何か」を求めて寄席を引退し、寺で日本文学の古典を学び始めた頃、青年画家から求婚を受ける。実母を含めて周囲から「人妻として夫の身の回りその他のことをどうするのか」と激しく反対され、2人は駆け落ちをして東京へ行く。遠縁の人の世話を受け、女中を雇うなどしながら一男一女を産み育てる。画家である夫のそばで口に絵筆をくわえて絵を描くうちに才能を発揮し、帯絵の画家として生計を立てるまでになる。

39歳の時、出家を決意して離婚を申し出て、尼として寺に入り、順教と名乗る。身体障害者や傷痍軍人のための相談活動を行いながら、画家、書道家としても活動を続け、67歳の時に書の作品が日展に入選、74歳、アジアで初の世界身体障害者芸術家協会の会員となり、78歳、ドイツで日本画と書の個展を開催するなど81歳で没するまで活躍し続けた(大石)。

見世物小屋の芸人として生きた中村久子(1898年~1968年)

明治31年、飛騨高山の畳職人の家に生まれた久子は、3歳の時、突発性脱疽により、両腕の肘から先、両足の膝から下を失う。学校には行けず、祖母から文字を習う。母から厳しく躾られ、身の回りのことから針仕事までをこなした。父が病死し、母の再婚先では「不具の子は恥」とされ、2階の一室に閉じ込められて少女期を過ごす。

20歳の時、自ら見世物小屋に行く決意をし、「だるま娘」の芸名で口と肘までの腕を使って、裁縫、編物、器楽演奏、書道などの芸を披露する生活を20年余り続ける。腹黒い興行師のもとでは逃亡を企てたこともあったが、古本屋で買い求めた万葉集や古今集を読むことを心の支えとし、自らも短歌を詠み、磨いた芸を披露することに喜びを見出していく。

小屋の確実な稼ぎ手となった久子のもとには、あるサーカスの団長から「息子の嫁にほしい」と言われるなど、多くの縁談が持ち込まれた。久子は「見世物小屋という所は、とかく世の中に受け入れられなかった私という生き物を人間に、否『女』にしてくれた温床でした」と語り、事実婚を含めて興業界の人と4回の結婚をしている。

初婚は24歳の時で、長女が生まれるが夫は病死してしまう。乳飲み子を抱えて小屋での生活を続け、まもなく再婚、次女が生まれる。夫婦は家を持って定住し、商売を始めることを計画していたが、この夫も病死してしまい、やむなく久子は二児を連れて小屋の生活を続けることとなる。3人目の男性とは入籍しないままに三女を出産するが、この子は病死し、男性とも別れる。長女と次女は学齢期を迎えると人に預け、自らは興業の旅に出て2人の子どもたちに仕送りを続ける。

36歳で9歳年下の男性と結婚し、この人と生涯を共にする。小屋には人手があり、ある程度の介護を受けることができたが、街から街への移動、道具の運搬、さらには舞台への昇降など、常に人手を必要とする興業界にあって、「生きていくために結婚はどうしても必要なことでした」と述べている。

39歳の時、学習院での講演会に招聘されて技芸を披露し、来日したヘレン・ケラーと対面している。その後、見世物小屋は引退し、70歳で没するまで各地で講演などの活動を行った(中村)。

生きる場としての見世物小屋 

彼女たちが生きた時代、見世物小屋という場は障害のある人にとって数少ない「生きることのできる場所」であった。『日本の放浪芸』の著者、小沢昭一は、見世物小屋が昭和40年頃まで日本の各地で見られたことを記録している(小沢)。久子は見世物小屋の芸人たちのことを温かく紹介している。

「不具の芸人たち」は、足や口を使って、駒回しや皿回し、桶のたが入れをし、「南無阿弥陀仏」などの文字を裏書きにして見せた。「牛娘」や「蛇娘」という芸名の女性たちは派手な衣装で「賑やかな鳴り物入りで野卑な歌も平気で歌う」という芸風だった。両手足のない「玉子娘」は美しい肌をもつ女性で、全国に知られていた。当時40歳くらい、3人の子持ちだった。腕先にサンゴの腕輪をはめ、細い竹の棒で器用にキセルにたばこを詰めていたという。

興行主が人手を雇うのを惜しんで芸人たちに雑用をさせたため、「みな手と口で5人分くらい働いた」。特に女性は朝早く起きて炊事をし、宿舎に帰ると夕食の支度をし、休みの日には天幕や化粧幕の修繕をしていた。この人たちはみなそれぞれに結婚し、所帯を持っていたという。

生きるエネルギーを伝える「芸」

寄席芸人として高座に上がった順教を含めて、見世物小屋の芸人たちは障害のある身体を人目にさらすことによって、生活の糧を得ていた。今日の感覚ではいかにも「反福祉的、前近代的」なもののように感じられるが、花田春兆はこうした芸について「障害のある人を見せるのではなくて人間としての芸を見せた。腕のない身体を見せるのではなく、口や足でする芸を見せるのである。見せる方は次第に芸に対する誇りを持ち始めたであろうし、見る方も生きるエネルギーを感じ取っていたはずだ」という(花田)。

自伝には、順教に辞書をプレゼントした書店の店主の話や、久子の「書の芸」を見て楽屋を訪ねてきた青年が、後に書道家として大成したというエピソードも記されている。今はもう見ることのなくなった「芸」だが、今日、パラリンピックを観戦して、鍛え抜かれた身体のアスリートたちに感動するのと似たような側面があったのかもしれない。

おわりに

順教が新生活を始めたのは明治44年、久子が飛騨を出たのは大正7年である。彼女たちは自分が育った家族ではない人たちの中で生活することを選択し、「駆け落ち」から出家、あるいは「見世物小屋」から結婚という道のりを経て、それぞれに「生きる場」を開拓していった。

彼女たちとその夫となった人たちの結婚生活は、単純な性別役割分業を超えたものとならざるを得ない一面があり、社会的な介護や育児を生み出すという面があった。その歩みは本人たちの意図を超えて、結婚制度や社会システムへの挑戦という意味合いをもっており、「自立生活運動」にも通じる先進的な試みであったといえるだろう。自伝作品はその貴重な記録である。

(なかのえみこ 財団法人日本知的障害者福祉協会)


【引用・参考文献】

○大石順教『無手の法悦』、春秋社、1968年

○中村久子『こころの手足』、春秋社、1971年

○佐伯彰一『批評家の自伝』、研究社出版、1985年

○小沢昭一『日本の放浪芸』、白水社、2004年

○花田春兆『蟹の足音75』、「リハビリテーション第420号」、鉄道身障者協会発行、1999年1月