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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年12月号

時代を読む14

全国初の肢体不自由校“光明学校”と私

私は昭和7年11月生まれの78歳。2年後、創立80周年を迎える光明(こうめい)と同年齢である。大先輩に花田春兆氏(第4期卒業生)がおられるが、光明麻布分教場~世田谷本校~上山田を体験した者として、戦争を知らない世代に伝えておきたい。

私は浅草鳥越(とりごえ)に生まれ、1年は地元の学校に通ったものの軍国主義の教師に差別され、見かねた母が東京市立光明学校を探してきた。2年生から光明に転校したが、ポリオだった私は足を引きずりながら市電を乗り継いで約1時間かかって麻布古川橋まで通った。クラスメイトは7人、裕福な家の子が多く、今消息が分かっているのは2人だけ。

校舎は廃校になった学校の古い木造の建物を2階まで長いスロープを取り付けて使っていた。通常の授業のほか歩行訓練、マッサージ室、日光浴室などがあった。椅子が籐椅子だったのには驚いた。19年7月、小国民と呼ばれた健常の児童を空襲から守るため国は集団疎開を始めた。しかし、戦力に役立たない障害児は疎開の必要なしと言われた。その頃、世田谷本校は周りが麦畑で空襲も大丈夫だろうと現地疎開となり私は寮に入った。校庭に防空壕が掘られ、空襲警報が鳴るたびに夜となく昼となく避難した。いよいよ空襲が激しくなっても国は何もしてくれないので、松本校長は障害児を教育するなんて非国民となじられながらも自力で疎開先を探し、ようやく20年5月に長野県の上山田に疎開した。その10日後、山の手大空襲で世田谷校舎は焼け落ちてしまった。疎開できなかったら死んでいたと思う。

思い出すのは食べ物のこと。あの時は食べる物がほんとに無くて、波田野先生が植物図鑑を見て、子どもたちが採ってきた野草を食べられる物を選り分けて食べた。勉強は地元の学校に行かず、旅館の大広間でした。腹が減った、さびしい、家が恋しい、辛いなどあの頃は皆同じ思いだったが、その中でわずかな楽しみは野苺を見つけ桑の実や杏子(あんず)の実を食べ先生に叱られたり、千曲川の安全な所で水遊びをしたり…。写真はふざけて膝くらいの深さでしゃがんで写したもの(本人)。昭和20年11月、私は皆より先に姉が迎えに来て東京へ帰った。今年、8月10日より4回にわたり、毎日新聞で「もうひとつの学童疎開―光明学校の障害児たち」に取り上げられた。

今、思い出しても、私の光明時代は戦争とは切り離せない。障害者は戦争の役に立たない、使い物にならない、死んでも構わないと言われていた時代、旧制中学は軍事教練ができないから進学できなかった。しかし、健常者が戦争でどんどん死んでいく時、使える障害者も教育して使おうということで旧制九段中学(現九段高校)に身障学級を作ったが、戦争が終わったらいつの間にか無くなってしまったのだった。

(秋山孝 東京都在住、第10期卒業生)