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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2010年12月号

1000字提言

筋ジストロフィー病棟、この30年

福永秀敏

私の親友で歌人でもある筋ジストロフィー患者の岩崎義治さん(65)の詠んだ歌に、「『治るよね』問いくる子等の澄める眼に、うんと言う嘘神許されよ」というものがある。岩崎さんらしい、やさしさの伝わってくる秀歌である。

昭和59年、私は大学から2年間ほどの予定で現在の病院に派遣されたが、いつの間にか26年が過ぎてしまった。

当時、筋ジス病棟には80人近くの患者さんが入院し、懸命にリハビリに励んでいた。しかし、病気は年々進行して20歳前後に命を落とす子どもが多かった。生まれてこのかた一度も歩いたことも走ったこともないという子どもたちが、そこで生活し、訓練し、学校に通っていた。

このように書くといかにも、「希望のないかわいそうな子どもたちの病棟」だと誤解されかねない。ところが現実はかなり違っていて、「普通に生まれてきて普通に生きている。特別な目で見てほしくない」という、元気でたくましい子どもが多かった。

回診で、「今日はどうだね」と尋ねると、「筋ジス以外は元気です(彼らにとっては、筋ジスは病気のうちに入らない)」という答えが返ってきて、1人苦笑したものだ。物心ついた時からこの病気と共生してきたわけで、呼吸器も自分が生きるための生活必需品であり分身ということになる。

超然と死を迎えた一人の青年は、「たった一度きりのわが人生、思うがまま、なるがまま、悔いはなし」と詠んだ。またある少年は、「病気を不運と思うが、不幸とは思わない」と、強がりでもなく自然に語ってくれた。

私は彼らから、生きることの意味や生死の極限でも保てる心の静謐さ、忍耐力、明るさ、やさしなどを教えてもらった気がする。病気と、そして生きるための機器に束縛されることなく、「気をつけつつ、気にしない」というファジーなスタンスは、病気との長い付き合いのなかから生まれた知恵かもしれない。

時は移り平成の世となり、筋ジストロフィー病棟という名前も消え、自立支援法の世界では「療養介護病棟」という名称に変わっている。

当時編まれた文集の、「車いすが不用となって駆ける日を信じている」という期待は、30年経った今も実現していない。ただ性能の良い人工呼吸器とケア技術の進歩により、40歳を超えている患者も多くなっているのがせめてもの救いである。

(ふくながひでとし 国立病院機構南九州病院院長)