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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

水面下の生と死

花田春兆

結論めいたものから書いてしまえば―死ぬのはともかく、殺されるのはゴメンだ―の一言に尽きよう。

それを高らかに謳い上げたのが、70年代の青い芝闘争だった。

当時、確かに過激と見られる面も強かったに違いないが、ともあれ、ADAより少なくとも10年は前に、障害者自身が、自分たちの生きる権利を宣言し、社会へ提起する運動を展開しているのだ。日本から世界へ向けての、貴重な発信材料ではないのか…。

この青い芝運動が華々しく展開した、生命尊重を正面に掲げての、闘いの激しさについては、執筆担当の先生が詳しく触れられているはずだ。

だが私としては、やはり身びいきで、私たち“しののめ”との関連が気になって仕方が無い。

で、青い芝関連ばかりでなく、他の項目、他の先生方にも重複する失礼をおかしそうだが、お許し願っておく。

研究・解明の論文ではない。同時代を生きた一人の当事者が、記憶している体験の記録なのだ。格好を付ければ、哲学よりも文学なのだ。

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しののめが、47号『安楽死をめぐって』いわゆる安楽死特集を世に問うたのは、1962年(昭和37年)だから、青い芝ブームより、さらに10年も前だったことになる(ブームの立役者・横田弘は、すでに詩人として加わっていた)。障害児殺しなど、明らかな殺人が、この詞を冠せられることによって、美化され肯定されてしまうことへの、抗議を篭(こ)めて掲げた、“安楽死”だったのだ。

きっかけは、小さな新聞記事だった。イギリスで進行中の障害児殺し裁判での、親への減免嘆願運動の展開が報じられていた。日本でも、その種の事件の発生が報じられはじめていたが、特に注目されたのは、その理由。―現在程度の社会保障では、殺した親ばかりを責められない―とあるのだ。

ショックだった。社会保障を誕生させ、模範的先進国のはずのイギリスでさえこれでは、日本などでは、殺されて当然ということになりかねない。

殺されたくは無い。その意思表示の声だけは上げておかねばならない。

私たちは燃えた。まさに総力を挙げる想いだった。自分たちだけではなく、当時急速に増えつつあった支援くださる方々、医師・父兄・関係職員の皆さんのお力をフルにお借りして、往復書簡とアンケートで、身近な問題として周囲の社会への浸透を図ったのだ。

創刊当初からの仲間に、ジャーナリスト一家育ちで頭脳明晰な男がいたのも、案外プラスしていたかも…。もちろん、各人各説のしののめだから、正真正銘の安楽死を否定するものではないし、むしろ望みたいくらいだ、と真正面から書いている人も居(い)た。

白石凡先生が『生への畏敬』と題して、しののめを朝日紙上に大きく紹介してくださったのもこの時、と思っていたのだが、実はそちらの方が1年ほど早かったのだ。ここで受けた過大な評価が私たちの自信となり、思い切った特集を組む原動力になっていたのだ。

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神奈川・関西を主に、青い芝運動が華やか?に脚光を浴びていた頃、各人各説、いわゆる穏健派も多かったしののめは、置いて行かれ気味なのを逆用して、隔たりを深める尖鋭集団と一般の間隙(かんげき)を、少しは埋めたかったのだ。

先行する主流の青い芝に関わることで、印象に残っている話題のシーンがある。優性保護法が問題になった時だ。

あるテレビ局が1つの番組で、コントロールを認めろという婦人団体と、中絶という殺人を許すなとする青い芝を、同時に扱ったのだ。

競演?顔を合わせたかどうかはともかく、いわゆる“産まない自由と生まれる権利”、この相反する2つを、敢(あ)えてぶつけて見せたのだ。対立する鮮明な主張。それが競合することで、いとも見事な一致点を浮かび上がらせた。

この種のことは、個人個々に異なり、各個人・各家庭で自主的に選択・解決するしかなく、国家権力や政治家が直接介入・指示すべきではないのだ、と言外に篭めた反問の強さで、見事に共鳴しているのだ。極めて自然な、当然な想いだと思うのだが、一般にはそう見えず特異に映っていたようだ。

それは、人の命も個人だけのもの、というよりも、国家・民族を構成する一員としての存在、にウエイトを傾けられて、政府なり政党なりの指示一つで、活殺されることに慣らされてしまっていた戦時下の名残は、まだ健在だったのだろうか。

そんな一般の底流に対して、敢えて2つの主張をぶつけたこともだが、共鳴させることで障害者問題を、共通の場に持ち出してくれたことに、私は注目したい。

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ただ、これは戦時下だけでもなさそうだ。存亡の危機が緊急に迫っているとは言え無さそうな平時でも、社会防衛・財政防衛を理由に、国家・社会という大多数のひとのために、一部の人々の生命が犠牲にされることも、正当化されて当然になってしまうのは、何時(いつ)の世も変わらないのかもしれない。

優性保護が公認されれば、結局、そうした底流をおおっぴらに勢いづかせるのは、あまりにも明らかだろう。

信じさせて推進してきた正当性が根底から揺らいで、誤認で犠牲を強いられた人々への、謝罪と対応に追われっ放しの最近の裁判沙汰を、さらに規模を大きく拡(ひろ)げて、繰り返すことになりはしないのか。

最も、犠牲者の犠牲となって、生まれて来ようにも来れなかった人たち?は、起訴騒ぎを起こす資格さえも、与えられぬうちに、処理済にされてしまっているのだろうが…。ハンセン病療養所のホルマリンベビーたちまでにも、育たなかった未完の生命たちなのだ。

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一方、一人の親としても、障害児よりも普通の子どもを授かりたいのは当然だろう。しかも国や社会もそれを公然と望んでいるとなれば、その思いに一層拍車が掛かって、育てる云々(うんぬん)の前に、生まれてほしくないから生みたくない、へと発展しても自然の勢い、何の不思議も無い。

羊水検査による胎児チェックが、障害の発生を予知できるとあって、一般に広く普及し始めたのは、何年頃だっただろうか。一部とは言え、障害者運動と強く絡んでいくことになる。

可能性の予告なら、告げるときの配慮は欠かせないにしても、必要有益であるのは否めないだろう。

だが、予知が発生予防と意味づけられると、そう単純では済まなくなる。

障害胎児?の選別は、水面下での生命の処理を、必然的に、半ば公認することになってしまう。増やさないように…は、増やしてはならないとなり、やがてはすでに生を享(う)けている者さえも、望ましくない存在としての排除に結びつくのを、鋭く予見した強い危機感が、障害者たちの永(なが)い沈黙を破らせたのだ。命の叫びだ。

それからほぼ40年、DNA検査・エコー診断と、ひたすら先を急ぐ風潮は、胎児ばかりか、それ以前の存在からも、障害は鮮明に見分けられる、と誇るのだ。対応する心の遅れへの指摘は良いのだが、このままでは、それこそ根絶への布石になりかねない。危機は深まる。

そんな現在、テレビは、一つの嬉(うれ)しいケースを映し出していた。

宣告を受けたが、意を決して産んだ子どもだったが、何と障害の影など何処(どこ)にも見当たらぬ、元気そのものの子どもに育っている、という母子の笑顔。

そう、機械も絶対・万能ではない。

もちろん、その母子の前後には、主要テーマの障害を生き抜いて育ってゆく、何組かの母子が描かれていた。

まだまだ人間も健在のようだ。

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「まだ、やっていないんですか」

当然のように問いかけられた言葉の、意味の意外性に驚いた当事者からの話に、愕然(がくぜん)とした一人の学生が、話の実在性を確認しようと動いたのが、そもそもの発端だった。

質問を受けたその大学の教授は、言下に否定し却下してしまったらしい。

彼には彼の、種々の配慮からの答え、だったとは思うが、それにしても、事実は事実、いかに否定しようが、断じて事実無根なことなどではない。

その言葉の意味するものが、
メンスなくする手術受けよとわれに勧むる看護婦の口調やや軽々し
女などに生まれし故と哀しみつつ子宮摘出の手術うけ居り

60年も前に、ある障害(CP)歌人が、哀しみを絶唱した手術そのものであることは、想像して間違いない。

産む・産まないの自由以前の、産める自由の性そのものを、優生とか母体保護とか、直接生命に関わる遥(はる)か以前の、介護の面倒だけで喪失させられていたのだ。そんな体験者の仲間は、歌人以外にも身近に何人か居た。

そう、そうした処置を意味する言葉が、水面下の一部にしろ、生き残っていたことの方に、私は愕然とする。

私たち世代数十年の苦闘は一体何だったのか?

(はなだしゅんちょう 「しののめ」主宰、俳人、本誌編集委員)