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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年2月号

脳死・臓器提供に対する思い
―人工呼吸器をつけて暮らす娘の父親として

永瀬哲也

そもそも「脳死」という言葉がおかしいのである。「死」という文字があることで、最初から「脳死=死」というイメージが植え付けられる。少なくとも「脳死=死」が本当なのか議論があるのに、最初から「死」んでいると決めつけているのだ。本来、「脳死」と言われる状態は「脳停止」とか「脳不全」とするのが適切だろう。「ドナーの生死はどうでもいいので、とにかく臓器をくれ!」という欲望が核心である脳死臓器移植を推進する動きにおいては、このような「思い込ませる」手法がよく使われる。しかし、ここでは不要な混乱を招かぬように「脳死」という言葉を使わせていただく。

ところで、脳死臓器ドナーの最期を思い描いたことがおありだろうか。頭にその様子を浮かべ、以下を読んでいただきたい。

「2回の脳死判定基準を満たした娘は脳死とされ、死亡を宣告された。娘の体は温かく、さっきも自力でおしっこをしたばかりだ。最後の抱っこの時にも心臓の動きを感じたし、伸びもした。既に娘の体には娘のためではなく、取り出す臓器を新鮮に保つための液体が流れ始めている。娘は1人手術室へ連れて行かれ、冷たい手術台の上に乗せられる。脳死で意識がないはずなのに、筋弛緩剤や麻酔薬が投与される。そうしないと、メスを入れれば体がバタバタと動く可能性があるからだ。娘の小さい胸はメスで切り開かれる。死んでいるはずなのに血圧は上昇する。胸の穴は器具で広げられ、まだパクパクと脈を打っている心臓が取り出される。他の臓器もとにかく急いで、取り出される…。数時間後、娘の体が戻ってくる。さっきまで温かく、ピンクのマシュマロのように柔らかかった頬は土色に変わり、石のように硬く冷たくなっている。体は傷だらけだ。体の中は空っぽだ。眼球が取り出された後に閉じられた目からは血のあとが流れていた。」

これが脳死臓器ドナーの最期だ。これが真実だ。脳死になる人間が増えることを期待し、このような最期を迎える人間をどんどん増やして、より多くの活きのいい臓器を取り出したいというのが、臓器提供推進の本質だということをどうか逃げずに理解してほしい。

脳死臓器提供を推進しようという力は、「命のリレー」、「救える命がある」といった甘い言葉で人を欺きながら、真実を覆い隠す。そして、欲(ほ)しい臓器がすべて手に入るまで「役に立たなくなったし、自発呼吸もないようだし、意識もないようだから死んだ」と定義された何千人、何万人という大人や子どもが脳死になることを望み、その温かい体から動いている心臓や他の臓器を取り尽くすことを目的としている。

従来、15歳以上で意思表示した者だけに限定されていたことが、昨年の法改正で対象があっという間に子どもや意思不明な者(拒否の表示をしていてもそれが見つからない場合も含まれる)にまで広がってしまったことを見れば、この恐ろしい目的が明確に見て取れる。そしてこの目的達成のために、さまざまな巧妙な手段でアプローチがなされている。対抗するには一人でも多くの方に真実を見据えていただいた上で、心の底から湧き上がってくる感情を信じてもらうしかない。

筆者が脳死・臓器移植について考えるきっかけとなったのは、現在、3歳7か月で在宅看護という形で暮らしている娘の生き様にある。

娘の遙(はるか)は13トリソミーという染色体異常があり、平均寿命は数週間から数か月、1年以上の生存率は10%以下と言われている(*1)。出生時より呼吸停止などの問題があり、生後2か月の時に吐いたものをのどに詰まらせて心肺停止。何とか蘇生に成功するも、低酸素脳症により、脳死に近い状態(*2)となった。自発呼吸が失われ、頭は腫れあがり、何度となく覚悟を促されるという状態が数か月続いたが、本人の生命力、医師・看護師の懸命な治療と愛情あるケアに支えられ、体調は安定し、1歳の誕生日を前に在宅看護へと移行できた。3年半もの間、人工呼吸器をつけ、ずっと「眠り姫」の状態だが、誕生前からずっと見守ってくれている病院の皆さんや、現在訪問していただいている医師・看護師・ヘルパーなど皆さんの温かいサポートを受け、家族3人での穏やかな暮らしに大きな幸せを感じている。急性期にほとんど抜けた髪が、今は20センチ以上にも伸びて、毎日女の子らしくさまざまな髪型を楽しんでいる。日々成長する姿は、我々や祖父母にとって生きがいとなっている。親馬鹿ついでに言わせていただく。脳死に近い状態の子どもではあるが、「私は生きてるよ!」とキラキラとした光を放ち続けている。

遙の心肺停止直後の診断は「脳のCTは全て真っ白で、脳細胞が不可逆的に死滅している状態。短期間で生命が危険な状態に陥る可能性が高い。もしも状態が安定しても意識が戻る可能性はないと思われる。脳幹のダメージも大きく、自発呼吸が回復する可能性も低い。出来うる最善は今の状態の維持」というものであった。

医師たちは安易に脳死という言葉は使わなかったが、筆者は遙がいわゆる脳死にあたるのだろうと理解した。命の危険が差し迫っているなかで、親としてでき得るすべてのことを考えておく必要を感じ、その中の一つとして、臓器提供ということについて主治医に聞いてみたが、「万一、脳死と判定されても子どもは臓器提供なんてできません(07年当時)。また特に小さい子どもの脳死については判断が難しく、医師の間でもまだ議論が多いんですよ。そんなことを考えずに、一生懸命に頑張っている遙ちゃんをみんなで支えましょう」という答えが返ってきた。臓器提供のことはいったん頭から消えた。

希望通りに在宅看護に移行した後の09年の年始から、臓器移植法の改正の話題が出始めた。1.15歳未満の子どもの脳死臓器提供を可能にする。2.本人の意思が不明でも家族承諾で脳死臓器提供を可能にする。という意見(いわゆるA案)があることを知った。家族3人で穏やかに暮らしていた筆者の心に波が立った。

議論も多いはずの子どもの脳死臓器摘出がなぜ可能になるのか? 確かに遙は脳死判定を受けていないが、脳死に近い状態で1年以上生きている。脳死判定基準を満たした子どもでも、少なくても一定の期間は家族と穏やかに暮らせる子どもも少なくないのではないか? 本人の意思に関係なく臓器が取り出されるというのはどういうことなのか。疑問が湧いた。

脳死臓器ドナーの最期がどういうものなのかを自分の子どもに置き換えて想像した。前述の表現はそれを書いたものである。そしてどんな理由があって、このような酷いことが許されようとしているのかを知らなければと感じた。そして、以下のような事実を知れば知るほど、脳死を人の死とすることはできず、よって脳死患者から臓器を取り出すことがあってはならないと強く思うようになった。

1.脳死を人間の死とするために提唱された論理は科学的な根拠がないこと(*3)。2.脳死を死とする脳死判定基準については問題点が多いこと(*3)。3.こういった事実が語られずに、より多くの臓器摘出を目的として、「命のリレー」、「あなたの選択で救える命がある」、「日本人の命は日本人で救おう」という宣伝が行われていること。4.臓器移植推進の背景には「経済的に役に立たない人間」が「役に立つ(かもしれない)人間」のために犠牲となるのはいいことであり、前者と後者の命を秤(はかり)にかけて、後者を取るという優生思想が見え隠れしていること。

このように気付いた筆者は何としても、A案に代表される臓器移植法改悪を阻止しなければと感じて活動を始めた。同じ思いを持つ市民の集まり(臓器移植法を問い直す市民ネットワーク、以下、市民ネット)にも参加し、国会議員に事実を伝えるための勉強会を開き、国会での傍聴もした。臓器移植推進の立場の議員の不適切な説明や虚偽の回答に怒りを感じた。討議は極めて短時間で、まともな議論もなく、知識も理解も哲学もない議員たちによって、法による「人の命の線引き」がされようとしている事実に凍りついた。

自らが無知であったことを恥じながら、限られた時間の中でできることを探した。家内と共に両院のほぼ全員の議員に手紙、FAXを送り、正しい理解をもとにした慎重な討議を求めた。2人の女性議員が遙に会いに来てくれた。脳死を死とすることの危うさ、脳死臓器提供推進によって命の線引きがどんどん前倒しになっており、経済合理性で命の重さが量(はか)られ、優先順位がつけられていく恐ろしさを感じていることなど、我々の話に耳を傾けてくれた。2人ともA案に反対してくれたが、A案は可決された。

昨年の改正法施行以降、脳死臓器摘出を推進する圧力は強くなるばかりだ。筆者が最も危惧しているのは、15歳未満の臓器提供が可能になったことを受け、全国の中学生に向けて、臓器提供推進のパンフレットが配布されようとしていることである。脳死、臓器提供に関する問題点なども含めて広く事実を伝えるべきであると市民ネットとして厚労省に申し入れたが、意見は反映されないまま配布がなされるようだ。まだ知識も価値観も醸成途上にある中学生を標的に臓器提供が善行であるという思想を吹き込むプロセスであり、恐ろしさを感じている。戦後60年を経て、人間を社会資本化しようという教育が復活してしまった。

また、臓器移植推進の中心である日本移植学会総会では、参加医師らに対し、「改定臓器移植法では、脳死=死となるのは臓器移植の現場のみになっているが、皆様におかれましてはおしなべて脳死=人の死ということでお願いしたい」との要請がなされた。これは法の趣旨に反してでも一般人を方向付けせよという煽(せん)動だ。このような医師たちの患者は正確な知識・情報を与えられずに決断を迫られる恐れがある。あらゆる方向から魔の手が伸びている。

脳死臓器ドナーになること、家族承諾をすることは、もちろん本人と家族の問題である。しかし、それだけにとどまらない。脳死が人の死である科学的根拠はないと考えざるを得ない。とすると、脳死臓器ドナーになること、家族承諾をすることは、思想的には命を軽んじ、自殺や他殺を認めることと同じではないだろうか。死んだも同然なので、臓器提供の行為は、「役に立たなくなった人間が、役に立つ人間のための犠牲になる」という命の順位付けを認め、美化し、恐ろしい真実や危険な思想を覆い隠すことになるのだ。

我々は命だけは平等であるべきだと信じてきたはずだ。あなたの決断はあなたの問題にとどまらない。穏やかに生きている重度の障がい者や声なき弱者にとっては、臓器提供推進の圧力や臓器提供が善行だという考えの広がりが、「あなたは役に立たない人間ですね」という言葉とともに、肩を叩かれるのではないかという恐怖になっていることをぜひ感じてほしい。

どちらにしろ、欲しい臓器の数は足りない。だからこの圧力は、やがて知的障がい者や老人といった順に圧し掛かってくるに違いない。何としても食い止め、押し戻さなければならない。決して脳死臓器ドナーになどなってはいけないし、家族の臓器摘出を承諾してはいけない。筆者は強くそう願う。

(ながせてつや 「人工呼吸器をつけた子の親の会」会員)


(*1)13トリソミーの平均寿命などデータは限られている。筆者の肌感覚では、平均寿命はもっと長い(近時の医師の積極的な介入や治療法の進歩などで)ように思われる。

(*2)遙は正式な脳死判定を受けていない(無呼吸テストなどは危険で、受けさせる理由もない)ので、「脳死」であると断言することは誤解を生むことから避けている。筆者からの質問に対する主治医からの説明(臨床的脳死であり、脳死判定を受けると基準を満たす可能性が高い)をもとに「脳死に近い状態」と表現することにしている。

(*3)紙面の都合で詳細は避けたが、この点を理解するのにあたり、筆者が参考にしたもののなかで、最も的確かつ簡潔に書かれており、読者にもお勧めするのは以下である。「いのちの選択 今、考えたい脳死・臓器移植」(生命倫理会議)小松美彦、市野川容孝、田中智彦編、岩波書店、岩波ブックレット No782、2010年