音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年4月号

罪を犯した知的・発達障害者への弁護活動を通して思うこと

副島洋明

1 本人の障害の受容と弁護

先日、私の講演を聴講していた年配の弁護士さんから、「私は自分の担当外の事件を傍聴する機会があり、その事件の被告人はどうも知的障害をもつ人であったようで、その弁護人は弁論で被告人をさして、知能指数も低く判断能力も劣り犯罪の是非弁別すらできない人間なのだと、ことさらに能力の低さを強調した弁護をやっているのを見て、実に不愉快な思いをしました。被告人は差別的に自分を言われて決していい気はしないと思います。知的障害をもっている人であっても人権の尊厳があると思いますが、副島さんは知的障害をもつ人の弁護でこの問題をどうとらえて弁護されていますか」という質問を受けました。私は咄嗟(とっさ)に「本質をつく質問ですね」という言葉がでました。そして私が答えた内容は次のような自分の体験でした。

私がこれまで扱った刑事弁護の知的障害や発達障害(自閉症)をもつと思われる人で、自分が知的障害者であり自閉症だと認める人はいませんでした。この人たちはこれまでさんざん差別され、苦痛を味わってきた人たちです。養護学校(特別支援学校)や障害者学級を卒業し、療育手帳で知的障害者と判定されたり、精神科医から自閉症と診断されている人であっても、自分から進んで認めて受け入れている人はいません。

私自身の弁護活動として、その被疑者(被告人)となっている本人の生育史と障害を詳細に調査し確実に障害の診断ができたとしても、それを裁判で使うことに本人の了解をとります。その了解を得るプロセスを正直に言えば、障害者と言わせてくれと拝み倒すように頼んだり、あなたの利益だけでなくあなたと同じような障害をもつ人たちのためにとか、あなたが捕まっている本当の事実を明らかにするためとか、いろいろな理由をつかってなんとか了解を得ています。

しかし、この人たちにとってあなたは普通じゃない人間だと言われることは、本音のところでは納得できないだろうなと思っています。正直、私にも後味の悪さというか何かごまかしている気持ちが残ります。私はとどのつまり、あなたは知的障害者であり自閉症なんだから、その特性なり障害としてできないこと、難しいこと、普通の人と違っていることを一生懸命に証明しようとしているんですね。ごめんねと謝って勘弁してもらっています。

以上が人権感覚の鋭い弁護士さんからの質問に対する私の答え・弁解でした。

2 知的・発達障害者と貧困

私が携わる知的・発達障害者の刑事弁護では、親や家族がいてその家族から依頼を受ける私選弁護の事件と、親がいても貧しさから私選で依頼する資力がなかったり、そもそも支援してくれるような親や身近な人がおらず本来国選弁護になるべき事件を、重要な事件だと判断して自分から弁護人になって介入する事件とがあります。

前者の多くは身元引受人となる親・家族がいて、被害者対策でも示談交渉する資金の捻出ができるし、また学校や福祉・医療から支援される関係があったりする事件です。よほど重い前科があったり重大事件でない限り、本人に改善更正が期待できる環境のおかげで「悪い結果」は回避できます。

ところが後者の事件は、弁護のはじめから身元引受人どころか本人を支援するべき福祉などの関係者の「影」すらなく、努力して本人の生育史を調べ親・家族をみつけても、精神的支援すら期待することも難しく、本人の育った環境も虐待的生育環境であったりして、貧困と排除(孤立)の中で「社会性の障害」を重度化させてきた人たちも多く、警察や裁判所にも何回もお世話になっていたり前科がいくつもあったりします。後者の事件の人たちは、その生育環境の貧しさと「社会性の障害」からみて福祉が必要とされてきた人たちであるわけですが、福祉を受けてきた経験をもっていません。

今の福祉制度(療育手帳・障害者年金・さまざまな支援等)は、知的障害をもつ本人が自分の力で申請し取得できるような実態になく、「親」がわが子のために動くことによって取得できるものになっています。それも「力」のある親である程いい福祉に出会い選べる関係になっています。言うなれば、恵まれた環境の元にある人たちには福祉が与えられ、たとえ事件となっても支援があって有利に弁護されるのに対し、貧しい環境の下で育ち福祉に手が届かず底辺にいる人たちは、福祉だけでなく刑事弁護からも見捨てられているというのが現状といえます。

知的・発達障害者の事件といっても、その両者はそもそものところで社会的に違った事件の構造をもっています。後者の人たちが罪を犯した背景には、少なからず福祉など何らの支援もなかったことが大きく影響しているととらえています。貧困は、同じ知的・発達障害者であっても痛ましい程の差別をつくりだしているといえます。

3 弁護人の“気づき”の問題

本人が自分の生育史を語ることができず、療育手帳や障害診断もなく、どうして知的・発達障害者の事件だとわかることができるのだろうか。わからないゆえに、多くの国選事件の知的・発達障害者はその障害が全く隠されたまま「普通の人」として裁かれていっています。そして刑務所での調査ではじめて知的障害者の診断を受けたり、知能指数(IQ)が知的障害をもつ人(IQ70以下)のレベルにしかないことがわかるというのが実情です。

警察や検察の取調官は、本人(被疑者)との長時間に及ぶ取調べの中で、本人に知的能力の遅れがあることや通常人と比べてコミュニケーションが異なることから、何か障害があることを経験上わかっているだろうと思います。しかし、その障害の特徴や生育歴等での問題が、取調べの自白調書や弁護人に渡る証拠に残されていることはまずありません。簡易精神鑑定をなした事実(簡易鑑定書の存在)すら裁判ではもみ消されて、弁護人がそれに気づかないと証拠開示すらされません。

そうすると、前記した貧困で福祉や医療に手が届かず、事実上切り捨てられてきた人たちの弁護では、弁護人の“気づき”にかかってきます。

まず、弁護人が接見の中で本人とのコミュニケーションを通して、「あれ、おかしいな/こんなことがわからないのか」「話し方・接し方に違和感が残るな/どうしてそんなことにこだわるんだろうか」と気づくような接見が求められてきます。

接見の方法として、最初は本人の話を辛抱強く聞くこと、できるだけオープンクエッションで誘導尋問を避けて「あなたは何をしましたか/どうしてですか/どういうきっかけからですか/それからどうしましたか」と繰り返し、相手が答えられない場合には、その表情をチェックしながらゆっくりと“やりとり”をすること、それは「はい」「うん」「そうです」と答えさせるだけの誘導的接見はしないということです。特別な接見のやり方ではありませんが、ていねいに慎重なやりとりをする中で“気づき”が生まれてきます。障害の程度が中度とか重度の人であればしゃべることに“難”がありますが、軽度となればしゃべることは上手にできますので、しゃべる内容に着目することが求められます。

“気づき”が生じたら、知的障害や自閉症の障害の特徴や遅れを確認するために、教育・福祉・医療の専門家の協力を求めて、その気づきを確認していく作業となります。弁護人は被疑者に障害があることがわかれば、それを証明する手がかりを求めて本格的な調査に入っていく、つまり深入りしていく弁護となっていきます。

国選弁護事件で知的・発達障害者と出会ったら、そこで観念して、知的・発達障害者の刑事弁護のつてや文献を調べ、支援者を探しだしていくことが弁護活動になります。

4 刑事司法の改革の問題

この人たちは、その障害の特性として過去の事実を記憶化し言語化するのが困難であることから、警察・検察の取調官の誘導・暗示に弱く「犯罪化」されやすいため、自白調書の任意性・信用性が常に問題となって、裁判での争点となります。弁護人としては密室での犯罪化に対し争わざるをえません。

私はこの人たちの接見において、“言葉”を重視しないようにしています。「(犯罪を)やった・やらない」の言葉でなく、変遷しつじつまの合わない供述のプロセスと物証との関係、つまり客観的な裏付けのない問題点をみつけることに力を注ぎます。つまり、疑わしき事実は争うということです。

今の刑事裁判は、刑事裁判の原則である「疑わしきは被告人の利益に」の原則に反して、疑わしきは被告人の不利益に、犯罪化と重罰化の流れにあります。この人たちにとって現在の刑事司法は、前記した障害の特性からみて人権侵害的構造にあるといえます。

私は、早々にこの人たちの障害特性にあわせた「特別の配慮」の司法改革が実施されることが必要だと思っています。その特別の配慮として、1.取調べの全面可視化が先行的にでも急がれること、2.取調べには本人の立場から援助できる福祉や心理の専門家が立ち会えるようにすること、3.捜査段階から、とりわけ国選弁護事件には、弁護人を補佐・援助する福祉・心理の専門家を国の費用で特別弁護人(刑訴法31条2項)に就任させる制度を設けること。この3つが制度化されれば、この人たちの司法手続が確実に大きく変わることになるはずです。

そうすれば、毎年1万人近くのこの人たち(その多くが窃盗や器物損壊等の微罪による累犯)が刑務所に入れられていることも、大幅に減少するはずです。罪を犯したとされる行為が、はたして検察の主張する刑事罰を科す犯罪とされるべき行為かどうかが慎重に審理されるだろうし、また罪を犯したとしても、この人たちを刑務所に入れることがはたして適切な再犯防止のための処遇かどうかが問われてきます。

そのような社会的非刑罰的措置(非犯罪化)の流れをつくるためにも、社会に復帰するこの人たちへの福祉の役割が求められてきます。

5 最後に

福祉における司法との連携が、これまで関心が向けられずにきた受刑者(刑務所)・元受刑者(更生保護)の分野で、刑務所から出て自立生活が困難な高齢者や知的障害者ら(社会的弱者)を地域の福祉につなげていくために、地域生活定着支援センターの設置や更生保護施設での「一時預かり」の制度化等として、事業化がすすめられてきています。この更生保護の分野は、福祉としては放置してきた分野ともいえますので、今後、罪を犯した人たちと福祉をつなぐというこれまでの福祉のあり方を変える事業化としてみれば、画期的と評価できるものといえます。

ただし、福祉と連携する司法が刑務所を中心とした分野に限られるとしたら、それは「福祉施設化した刑務所」の処理だけを福祉に「委託」するようなもので、連携して福祉のちからを司法に活用する、福祉の役割を司法のいろいろな分野に浸透させていくという本来のあるべき連携の視点からみれば大きくはずれており、福祉が刑事司法のつくった問題の後始末に利用させられることにもなりかねないという危険性も抱いています。元受刑者・罪を犯した人・特別な人という視点からその処遇困難性にだけ目を向ければ、おそらく、特別な人たちのための受け皿として管理を強化した特別の収容施設が必要だという論議・方向に向かうでしょう。

しかし、障害者福祉の現場(リーダーたち)は、そのような管理化に対抗して、少々の難しさがあっても、この人たちは「特別な人」ではなく地域で暮らすことができる「普通の人」だとして関係性をつくって支援し、地域福祉を築くことができると私は信じています。

(そえじまひろあき 弁護士)