音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年4月号

文学にみる障害者像

ダウン症候群の青年が書いた自伝的エッセイ
『ナイジェル・ハントの世界』に出会う

菊地澄子

ダウン症候群という障害

ダウン症候群は1866年に、英国の医師ラングマン・ダウン氏によって最初に報告された常染色体異常によって起こる障害である。染色体は通常23体・46個あるが、ダウン症候群の大部分が21番目の常染色体が1個多く存在する。このようにダウン症の障害は出生前から、さらに出生後も障害が起こるのである。とくに、知能面の発達に障害を受け、個人差はあるものの、平均知能は中程度(IQ・25~50)と言われている。

最初に報告された頃は、「蒙古症」という名称が付けられていた。これは、ダウン症児の顔が蒙古人に似ていることから付けられたものだと言われるが、病気と蒙古人とは全く関係がなく、不適切で非科学的な命名であり、偏見や差別につながる命名であった。

現在では、発見者の名前をとって「ダウン症候群」または「ダウン症」と呼ばれている。本書も原文には「蒙古症」となっていたが、訳者の中村陸郎氏は「誤った命名」なので「ダウン症候群」と訳させてもらったと説明している。

ナイジェル・ハントの生い立ちと本書

本書は、1947年に英国で生まれたナイジェル・ハントが17~18歳の頃に書いた本である。ダウン症の彼は幼いとき、専門家によって「教育は不可能です」と宣告された。それでも母親は、文字の読み方や発音を生活や遊びを通して、楽しみながら教えた。そのおかげで、彼は7歳までに文字は完全に読めるようになった。

せっかく入学した普通小学校だったが、ナイジェルは7歳のときに知的障害の特別支援学校へ送られた。この学校で、両親が「この子は文字が読めます」と言っても、先生方はだれも信じてくれない。校長も「文字が読めても、意味はわかっていないですよ」と言う。

タイプライターも打てるようになったナイジェルだが、能力を認めてもらえない辛い学校生活だった。11歳のとき、ナイジェルはアソルという私立の普通学校へ転校できた。ここでは皆と友達になり、のびのびとして楽しい学校生活を送れた。優秀な先生方だったが、ここでもやはり先生方は自分自身で納得するまでは、ナイジェルの能力を疑っていた。

父親は「専門家の多くは、すべての知的障害児のケースを一緒にして“これらの子どもたち”に何ができるかについて、先入観を持っています。まして、彼らの能力を実際以上に低く評価していることを、容易に認めようとはしません」と、正しい理解をしてほしいと訴えている。

1985年、日本で本書が発行(偕成社)されて以来、学校の教師・療育者・保護者たち、知的障害児に関わる人々にとって、本書は勇気と希望を与えてくれた貴重な本である。

8編を集録した『ナイジェル・ハントの世界』

◎〈ロンドン・インスブルックで迷子になる〉

ここには2話集録。朝のニュースで軍旗敬礼分別式の予行練習があると知ったぼくは、急いで着替え、お金を9ペンスだけ持って開催地まで片道切符を買って電車に乗った。やっと会場に着いたが、すごい人垣で分別式を見ることができない。仕方なく家に帰ろうとしたがお金が無い。駅で家に電話してもらうと、父が警察に捜索を依頼したので、ナイジェルは警察官に保護されてしまった。

ある日、3人で街へ行ったとき、両親はウインドウをのぞいてショッピングをしていた。ぼくはレコード屋に入り、2枚のレコードを買うのに、最後まで聴いてから選んで買った。その間、両親はずっとぼくを探し廻っていたというのだ。

◎〈王室のウインザー〉

ぼくの家からそれほど遠くない所に、イギリスの女王が住んでいらっしゃるウインザー城がある。ある日、ぼくは来客を案内してその城に出掛けた。そこで皇室の人とすぐ傍らで会う機会があった。みんなは感激していたが、ぼくはこのとき、エジンバラ公が品の悪い言葉を口にしたのを耳にしたのだ。続いて、アメリカのケネディ大統領の記念碑に案内した。ケネディ大統領の暗殺を聞かされたとき、ぼくは「腹がたって、お気の毒にと思った」と自分の気持ちを率直に語っている。

人々への好奇心や王室へも物怖じしない率直な感想表現など、いかにもダウン症らしいナイジェルの世界である。

◎〈外国での休日〉

ナイジェルは両親とともに、毎年どこかに休暇旅行に出掛けた。これらの旅行のときの様子をナイジェルの目を通して率直に書いている。両親がヘマをやったことや、どこの店で何を食べたとか、どんな音楽を聴いたなどを詳しく紹介している。

1965年は、休暇旅行に行かなかった。ぼくが訓練所で仕事をして帰ると、父が迎えに出てきて母が脳卒中で倒れたという。部屋に駆け込むと、母はベッドで眠っていた。

◎〈ポップ・ミュージック〉

音楽好きなナイジェルは、本書をポップ・ミュージックだけの本にしようと思っていた。しかし、「他の人たちは体験談の方に興味があるだろう」と父に言われて、このような本になったが、どうしてもポップ・ミュージックについて書きたかったので、少し書いたという。大好きなビートルズを中心に、さまざまな曲名や歌手名などについて、詳しく解説している。私は彼の熱弁に思わず引き込まれてしまった。

ナイジェルは、「音楽」という自分の好きなことでは、だれにも負けない自信をもっているのである。

◎〈ぼくの両親〉

母は生涯にわたって、ぼくにやさしい人でした。母はぼくに文字を読むことを教えてくれました。ぼくが幼かった頃、遊びながら母から文字の音を教わったのです。ぼくが本を正確に読み始めたとき、母は驚き、喜んでくれました。

ぼくにはすてきな父がいます。彼は多くの時間を書きものをして過ごします。彼はぼくにタイプライターの大文字の使い方を教えてくれました。そしてまもなくぼくは自分のタイプライターをもつことができたのです。~~ある日ぼくがその使い方を覚えると、近所の人たちも大変喜んでくれました。父はアソル校の校長をもうすぐ退職します。ぼくは父が好きです。父は彼の学校の生徒たちが好きです。彼は校章を誇りにしており、親たちは彼がよい校長であると思っています(ナイジェルの文章のまま)。

◎〈アソル校〉

父親はアソル校の校長で、ナイジェルは11歳でその学校に転校した。ここでは素晴らしい先生方と出会い、みんなと友達になれた。

とても楽しい学校生活であったが、母親が2度目の脳卒中に襲われ、亡くなってしまったのである。「ちょうど、アソルの話を書き終えるところで、気の毒な母の運命を聞いたのですが、ぼくがこの本を書き続けていることを知って、母はきっと喜んでくれていることでしょう」と、健気(けなげ)に結んでいる。

◎〈思い出の歳月〉

ナイジェルには双子の叔母さんがいて、音楽好きな彼はよく叔母さんにレコードを聞かせてもらった。彼は「ビートルズ」の歌の指揮をしたり、『ラブ・ミー・テンダー』の曲で、叔母さんと踊ったこともある。彼は、近所の人や親戚からも可愛(かわい)がられ、見守られてきた。こんなナイジェルの思い出は、読者をも優しい気持ちにしてくれる。

◎〈アメリカ合衆国〉

ナイジェルは音楽が好きだが、アメリカのハリウッドこそ最も好きな都市だと言う。摩天楼はニューヨークそのものだが、ここは好きではない。ブロードウェイで上演される『ディック・ヴァン・ダイク・ショー』について触れ、『メアリー・ポピンズ』がロンドン公演で、大成功を収めたことを解説している。さらにナイジェルは、自分が連れて行ってもらって楽しかったアメリカの各地を、本書で案内してくれている。

本書は、文学的評価を云々するものではない。いかにも若者らしい感覚と率直さが溢れ、ダウン症らしい思考の幼さと懸命さが、不思議な魅力を感じさせる。だれにでも勇気と希望を与えられる本である。

(きくちすみこ 障害と本の研究会代表、児童文学作家)