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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年6月号

1000字提言

震災ボランティアの体験から

浅海奈津美

月半ばの1週間なら職場を不在にできる境遇にあり、お呼びがかかったこともあって、現地で桜が咲き始めたころ東北被災地にボランティアとして出かけた。参加したのは、とある保健介護系多職種チームで、被災地支援の経験あるリーダーのもと、ボランティアメンバーが1週間交代で支援をリレーしていこうというもの。

何をするのか何ができるのか。誇れるような救命救急や重介護の技能を欠く者としては、必要な方々に適切な福祉用具を見立てて手配提供すること、あるいは段ボールその他ローテクで手作りすること、くらいしかイメージできない。「行きます」と返事をしたものの、どのような想像力も言葉も追いつかない体験の渦中にある方々に関わる覚悟が、自分に本当にあるのだろうか。

手掛かりを求めて急遽取り寄せた阪神・淡路大震災の体験記に、外部の人間が雑用を担ってくれれば現地の人がその人にしかできない仕事に専念できる、という趣旨の文を見つけ、それなら何かの役に立てるかもしれないと、少しは思えて現地に向かった。

行けども行けども終わらない災害の光景は、TVの画面や写真と違って、なぎ倒された自動車や家や木が、当たり前だが、原寸大である。そんな事に驚く自分にあきれながら、避難所になっている古い体育館に到着。建物の隅で始めたミーティングの円陣越しに見えたのは、普段なら運動した後に手や顔を洗う洗面台で歯を磨いている若い女性の姿であった。

我々のチームが行わんとする、避難所環境の改善を中心に据えたローインパクトな支援は、日ごろ個別援助の専門職を自負するメンバーにはなじみが薄く、それが自分たちのやるべきことなのか、引き継ぎを受けてはいたものの、皆が納得していたわけではなかった。けれども避難所とは、住民の日常生活行為の場なのであって、特別仕立ての援助や何かを上演する舞台ではない、ということを、洗面台を向いた女性は後ろ姿で語っていた。

当たり前の生活行為を当たり前にする日常を、いかに避難所という非日常的状況で創り支えるか。即(すなわ)ち、個人を守る住まい、温かく栄養のある食事、洗濯や入浴の機会、気に掛け笑い合える隣人、生活情報、仕事や役割、良眠、苦痛の緩和や予防、ちょっとした気晴らし、に関わることのうち、自分たちができることは何か。全員で必死に考え動き、現地の人の裏方として、幾何(いくばく)かの環境改善を試みた1週間だった。それは、自分の日常が何で成り立っているのかを振り返る作業でもあり、日頃、仕事で関わる路上生活体験者や独居高齢者の生活支援を再考する作業ともなった。ちっとも「特殊」なことではなかった。

(あさみなつみ ヘルパーステーションふるさと ケアマネジャー/作業療法士)