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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年4月号

時代を読む30

高木憲次と肢体不自由児療育事業

高木憲次(1888~1963)は、わが国肢体不自由児療育事業の始祖とされている。

高木は、大正4年(1915)、東京帝国大学医科大学を卒業し、整形外科医局に入った。深く患者と接するとともに、肢体不自由者の実態を知りたいと考え、翌5年から、東京のスラム街で肢体不自由者の実態調査を始めた。

この経験に基づき、大正7年、肢体不自由児が、治療に専念すれば教育の機会を失うし、教育を受けようとすれば治療の機を逸することから、治療とともに教育を受けることができる「教療所」が必要だと主張したのである。

高木は、この考えに基づき、度々、東京市を始め内務省や文部省に対して、肢体不自由児の実情を話して、教療所の設置を懇請した。それが実現しないうちに、大正11年にドイツへ留学することとなり、彼の地においてクリュッペルハイムを見聞したのであった。

ドイツにおける見聞に基づき、帰国後の大正13年、「クリュッペルハイムに就て」と題する論文を発表した。医学が進歩したにもかかわらず、奇形・不具と呼ばれ不治の病と放置されていた者が多いことに対して、治療とともに教育を行い、職能付与によって自活できるようにすることが必要であると説き、わが国にも、このような機能を備えた「クリュッペルハイム」が必要であると主張した。

この年12月、高木は、東京帝国大学教授となり、恩師の田代義徳の停年退職の後を継いで、整形外科講座担当教授となった。

昭和3年(1928)頃、「奇形・不具」という名称に代わるものとして、高木は、一患者の言をヒントにして「肢体不自由」という名称を提唱し、その後、医学会でもこれが採択された。

他方、田代は、停年後、東京市会議員となり、肢体不自由児の保護施設の必要を力説した。昭和6年、東京市教育局は調査の結果、小学校に在籍する体操免除の肢体不自由児が約7百人を数えたので、新しく学校を建設することになり、翌7年5月、東京市立光明学校が開校した。このように、高木は、恩師の田代とともに肢体不自由児の医療ばかりでなく、日本の肢体不自由教育の発足に当たって、力を尽くした。

また、高木は、念願としていたクリュッペルハイムの建設に引き続いて尽力した。戦時体制へ進む情勢の中で、幾多の困難にもかかわらず、民間の力を結集して、その建設運動を進めた結果、ようやく昭和17年(1942)5月、整肢療護園が開園した。

なお、高木の定義による「療育」を要約すれば、「不自由な身体を出来るだけ克服し、『肢体の復活能力』そのものを出来るだけ有効に活用させ、以て自活の途を立つように育成すること」とされ、その内容となるものが治療・教育・職能付与であり、いわゆるリハビリテーションと同義と考えられる。

(村田茂 国立特別支援教育総合研究所名誉所員)