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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年5月号

証言3.11
その時から私は

岩手県立高田病院から救出されたALS患者として

多田亮治郎・栄子

平成23年3月11日14時46分。あの日、私はいつものように夫の入院している岩手県立高田病院に行ってあの地震に遭いました。夫は4年半ほど前から筋肉の病気の筋萎縮性側索硬化症という難病で入院していました。岩手県立高田病院は4階建てで、夫は4階の出入口そばのナースステーションの近くの病室にいました。

私はいつも午前中から病院に行き、午後早めに帰るようにしていました。あの日も午前中から出かけ、そろそろ帰る時刻でした。その時にあの突然の大揺れ、大地震に遭ったのです。驚きました。恐ろしかったです。

夫は人工呼吸器を付け、自分では手足も体も動かすことができません。地震で夫が寝ているベッドが右に左に大きく動き、ベッドから転げ落ちるのではないかと、私は夫のベッドの上に覆い被さりました。人工呼吸器が外れないように片手で押さえるのがやっとでした。「父さん大丈夫だよ。でも怖いな怖いな」と言ったのが思い出されます。大きな揺れで天井に取り付けてあった空調室内機が落ちました。夫の頭の上より少しずれていて、夫の頭の上でなくて良かったです。先生や看護師さんが来て夫を診てくれました。

揺れが収まると看護助手の方と私と2人で片付け始めました。地震から20分くらい経った頃だったと思います。はっきり覚えていませんが、病院の窓からは気仙川という大きな川が見えるのですが、その気仙川に真っ黒い水が盛り上がり逆流しているのが見えました。「あれは何だ!何だ!」見たことのない風景でした。外の防災無線からは「3メートルの津波が来ます」と流れていました。それを聞いた看護助手の方が「大変だ!車を移動しないとね」と話をしていました。気仙川の方ばかり見ていて、駐車場がある下の方を見ていなかったのですが、病院の下の庭を見た時にはすでに津波が来ていました。車が流されていく。歩いていた人が流される。何が起きているのか分かりませんでした。それからあっという間に4階まで水が上がってきました。電気が止まり、医師や看護師さんが夫の呼吸器を外し、夫にアンビューバッグを付け始めました。それから間もなくです。「お母さん逃げて、早く逃げて」と看護師さんが叫んだんです。身動きができない夫をどうする…。どうなるの…。再度、看護師さんが「お母さん早く逃げて早く、早く」と言われました。私は身動きできない夫を置いて屋上に上がりました。ただもう怖くて、恐ろしくて、仕方ありませんでした。余震は続き、水が迫ってくる。

屋上にはびしょぬれの患者さんが次々に運ばれて来ました。なかなか夫は来ない。もう流されてしまった…と思っていました。どのくらい時間が経ったのか分かりませんが、屋上にいる私を院長先生が見つけて手招きしました。「あっ…」。夫がびしょぬれで運ばれてきました。津波の勢いでエアマットが浮いたのをを引っ張り寄せて、助けてもらったそうです。院長先生からは「まだ助けられる人たちがいるかもしれないからアンビューバッグを押していて」と言われて必死で押し続けました。

とても寒く長い一夜でした。体を覆う物はすべて濡れていました。看護師さんがビニールを切って体を覆う物をみんなに配り、紙おむつを体の中に入れ、身を寄せ合い、交代で一晩中夫のアンビューを動かし続けました。手がかじかみ、長くはできません。雪の降る寒い夜でした。院長先生は「どこでもいい。携帯が使える人は連絡し続けて」と必死で言っていました。

うっすら夜が白み始めた頃、自衛隊ヘリコプターが病院の上空に来ました。しかし、自衛隊ヘリコプターの救助方法は、ハーネスと呼ばれる器具を付けて救助士とともに空中を移動できなければならず、夫には無理なことでした。さらに自衛隊ヘリコプターには呼吸器の搭載が無く、また衛生自衛隊員は搭乗していますが、医療行為を行うことができないと知りました。その後、岩手県の防災ヘリコプターが来てくれましたが、屋上には着地できないので、みんなの協力で瓦礫を取り除き、1階まで夫をエアマットに乗せて運び、夫と私はヘリコプターと救急車を乗り継ぎ岩手県消防学校で応急処置を受け、盛岡市内の岩手県立中央病院に運ばれました。低体温と海水を飲んでしまったことでその後も病状が悪化して大変な時期もありましたが、今も入院している夫ですが、元気になりました。

あの時、夫も私も多くの皆さまのおかげで助けていただき、今があります。なぜ助かったのか。それはいろいろな方々の力です。本当に感謝しています。どれほどの感謝の言葉を並べても言い尽くせません。しばらく経って、夫にあの時のことを聞いてみたら「覚えていない…」と言います。私は《お父さんを置いて逃げてしまった》という自責の念が心の棘となり辛い思いが私を苦しめます。不眠も続いている。やっと11か月が経って話すことができるようになりました。

最近、岩手県立高田病院は、入院病棟が始まったと知らせが入り、院長先生と話をしました。でも人工呼吸器はまだ1台しか無いそうです。何も無くなってしまった故郷。津波の爪痕が生々しい故郷。でも夫にとっては、生まれ育った故郷です。家族は「母ちゃんが帰りたいなら戻っていいよ」と言ってくれます。でも夫と2人で生きて行くのには厳しい現実があります。もう少し、もう少し時間が必要です。

(ただりょうじろう・えいこ 日本ALS協会岩手県支部)