音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年7月号

文学にみる障害者像

『素顔の塙保己一―盲目の学者を支えた女性たち』

田中徹二

保己一物語

著者の堺正一は、埼玉県の特別支援学校などで教鞭を執り、埼玉県立盲学校(現、埼玉県立特別支援学校塙保己一学園)校長を務めた人である。現在、立正大学社会福祉学部社会福祉学科教授だ。

本書は、第1章盲学者・塙保己一小伝―世のため、後のために、第2章塙保己一を支えた女性たち―長女とせ子の回想、第3章あれから―今に生きる塙保己一の3章から成っている。第1章、第2章は、読みやすさを主軸にし、史実に基づく伝記というより、史実を基に著者が創作した物語である。特に第2章は、長女が保己一の死後、父を回想するモノローグになっている。本書の特色は、この章にある。因(ちな)みに第3章は、保己一にまつわるエピソードが紹介されている。

保己一といえば、『群書類従』『続群書類従』の編纂者であり、江戸時代の国学者として、また和学講談所で学問を教えたことで有名だ。目が見えないのに、対面で読んでもらい多くの本を読破し、すべて記憶して群書類従にまとめた。超人的な才能の持ち主で学者として大成した偉人だ。高潔な人物として印象付けられてきたのはごく自然なことである。

ところが、長女とせ子が語るのは、父であり男としての保己一だ。彼を取り巻く女性たちを己の目を通して描いている。

保己一伝記の原点は、中山信名の『温故堂塙先生伝』によるところが多いというが、晩年の保己一に直接聞いて書いているので、保己一が望まなかった家族についてはほとんど記述がない。「葬儀が済んだ今、娘のわたしがお話する分には、父も許してくれるでしょう。保己一という人物の人となりや家族のことを少しでも知っていただければ…、と存じます。父への供養にもなるのでは…、そんな思いがつのってくるのです」と、著者はとせ子に語らせている。

保己一を取り巻く女性

保己一の生まれは、延享3年5月5日(1746年)、亡くなったのが文政4年9月12日(1821年)なので満年齢なら75歳の生涯だった。この間に3人の女性と関係をもっている。1人目は最初の妻テイ、次いで2番目の妻たせ子、そしてイヨである。

最初のテイは、保己一が37歳になって結婚した若い女性。長女とせ子を出産したが、やがて保己一との間に間隙が生じ、3歳のとせ子を残して塙家を去ってしまう。「検校の家ならお金もあると思って嫁いだのに、借金だらけで一汁一菜という粗末な生活に耐えられなかったのではないか」と、とせ子に想像させている。

次のたせ子は、とせ子に愛情を注ぎ育てた。とせ子も実母のように慕い、文字の読み書きもできる教養のある女性として、感謝を込めて回想させている。しかし、病弱で子どもには恵まれなかった。

とせ子は22歳になって、保己一の弟子の1人、中津金十郎と結婚、養子として塙家に迎えた。保己一の跡継ぎにするつもりだったようだが、保己一が手伝いとして住み込んでいたイヨと情を通じ、2人の男の子が生まれたことから、やがてとせ子と別れて塙家を去っていく。

親子以上に年の離れたイヨが保己一と結ばれたのは、妻のたせ子が手をついて頼んだというできすぎた話になっているが、塙家として跡継ぎがほしかったに違いない。塙家に残ったとせ子が2人を育て、次男の塙次郎が和学講談所を継いだ。やがてまだ若かったイヨを保己一の傍らに置いておくわけにはいかないと、とせ子たちは彼女を結婚させるが、保己一は彼女に心残りだったように見える。

こうして見ると、保己一を取り巻く女性関係は、たとえ男尊女卑の封建制度の中にあっても複雑すぎる。学問にかまけて、家族の心の動きにはいっこうに頓着しない世間知らずの保己一が透けて見えるようだ。著者は学者なので、女の葛藤など全くなかったようにきれいにまとめているが、小説家だったら、女性の心の動きも巧みにフィクションにまとめあげたかもしれない。

惣録検校になった保己一

保己一は、武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市)に生まれた。幼少のころから身体は丈夫ではなかったようだが、病気で7歳の春に失明した。手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えたという。また、和尚が読む太平記を一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かった。当時、江戸では「太平記読み」という盲人の仕事があることを伝え聞き、保己一は江戸へのあこがれを高めていく。

15歳で江戸に出て雨富検校に入門した。按摩・鍼・音曲などの修業を始めたが、どちらも上達しなかったという。特に検校が貸した金の取り立ては苦手だったようだ。そこで雨富検校に学問の道に進みたいと願い出たところ、「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰す」という条件付きで認められた。

学問に対する保己一の情熱はすさまじく、さまざまな人に本を読んでもらい知識を増やしていく。幕府の庇護を受け、群書類従を編纂し、和学講談所で学問を志ざす人々を教えた。また、当道座においても別当、検校と順調に昇格し、最後は惣録検校になった。

保己一のころの盲人たち

当道座とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織である。江戸時代には、江戸幕府から公認され、寺社奉行の管理下に置かれた。京都に総検校がいて当道座を統括していたため、官位を得るには京都に上らなければならなかったが、管鍼法で名をはせ、世界初の盲人教育施設の「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した杉山和一が、元禄2年に関八州の当道座を統括する惣録検校となり、江戸においても官位の取得ができるようになった。保己一もこの惣録検校に就いている。

幕府は当道座がこれらの官位を金で売ることを公認した。金さえ積めば検校になれたのである。位の上下による序列は非常に厳しく、独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していたという。箏、地歌三味線、鍼灸、按摩などの職種を独占し、早く昇官するのに必要な金が得やすいように元禄以降、金銭貸付業としても高い金利が特別に許された。貧しい御家人や旗本をはじめ町人たちからも暴利を得ていた検校もいたという。18世紀後半には、借金の強引な取り立てが問題化した。借金の返済ができない旗本の屋敷前に、多くの座頭が集まり、「金返せ」の連呼で、旗本の対面を傷つける作戦をとった話は有名である。江戸幕府の崩壊の後、1871年(明治4年)、当道座は解体され消滅した。

こうした盲人の保護政策はあったものの、別当や検校などの地位についた盲人はごくわずかで、他のほとんどは人間以下の悲惨な生活を送っていた。それを如実に描いたのが、井上ひさし作の『藪原検校』(やぶはらけんぎょう)だ。ちょうど本年6月12日から7月1日までこまつ座が東京で上演したが、野村萬斎演じる藪原検校は圧巻だった。

冒頭、井上ひさしは当時の盲人の悲惨な運命を冷酷に描く。大飢饉で食べられなくなった津軽の座頭300余人が秋田藩に逃げようとする。それを防ごうとする藩が一計を案じ、急峻な坂道の縄を断崖に導く。それをつたった座頭たちは次々に日本海に転落していく。そんな時代に、塩釜の地に、悪党七兵衛の産まれてきた赤ん坊は、醜男で悪党という親の悪いところばかりを譲り受けた盲児だった。成人した彼は、師匠や親を次々に殺害し、江戸に出る。酉の市という名になって藪原検校の弟子になる。貸し金の取り立てで頭角を現し、遂には藪原検校をも殺してしまう。まんまと二代目藪原検校の座につき、若干27歳で検校になるのだが、ここで塙保己一に会うという筋書きだ。保己一に会った彼は、「いくら偉い学者でも、この若さで検校にはなれなかっただろう」とうそぶく。しかし、急転直下、悪行がばれて捕まり、見せしめとして極刑に処せられる。その極刑を老中の松平定信に提案したのが保己一という設定だ。

井上ひさしの戯曲は全くのフィクションだが、当時の盲人一般が差別の渦の中にいる状況を的確にとらえ、そこから這い上がろうともがく悪党をみごとに描いている。

それに対し、本書は、保己一の心優しい家族を取り上げ、違う視点でまとめた物語である。

(たなかてつじ 日本点字図書館理事長)


◎堺正一著『素顔の塙保己一―盲目の学者を支えた女性たち』埼玉新聞社、平成21年