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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年10月号

文学やアートにおける日本の文化史

仁木悦子と江戸川乱歩の出会い

中野惠美子

第3回乱歩賞授賞式のざわめき

1957年、人々の心にも身体にも空襲や原爆の生々しい記憶があり、街角には戦争で負傷した傷痍軍人の姿が見られた頃、第3回江戸川乱歩賞の授賞式が催された。会場は一瞬のざわめきに包まれた。受賞者の若い女性が6人のボーイたちに神輿(みこし)のように掲げられたソファに横たわった姿で現れたのだ。受賞者が病身であることは事前に報道されていたが、関係者の多くは授賞式には家族が代理で出席するだろうと予想していたのだった。

今年で58回を数える江戸川乱歩賞は1954年に探偵小説、推理小説を奨励する目的で江戸川乱歩(1894~1965)の還暦を機に創設された。戸川昌子、西村京太郎、森村誠一、桐野夏生など、名だたる作家が受賞している推理小説の登竜門である。その第1回目は探偵小説研究家の中島河太郎に、第2回は海外推理小説全集を刊行した早川書房社長に贈られた。第3回からは公募作品による「新人賞」としての選考に方針が切り替えられ、96編の応募作品の中から仁木悦子(1924~1982)の『猫は知っていた』が選ばれ、瞬く間にベストセラーとなり映画化もされた1)

誰も知らなかった…

仁木は幼い頃に胸椎カリエスを患い、病床にあった。学校には行くことができず、長兄から家庭教育を受けた。戦後まもなく童話作家としてデビューし、いくつかの雑誌に連載をもつまでになっていた。長兄は戦死し次兄夫婦の家に同居していたが、経済的に自立することを強く望んでいた。

『猫は知っていた』は海外の推理小説を読み込んで書かれたもので、応募作として「河出書房探偵小説名作集」に入選が決まっていたが、出版社の倒産によってその話は立ち消えとなる。選考委員の一人であった乱歩はそのことを惜しんで、自ら仁木に速達郵便を送り、乱歩賞応募に切り替えるように促した。この時点で仁木がどういう人物かは誰も知らず、委員の一人は「男が変名を使って応募したか、あるいは作品の病院の描写からすると看護婦か女医ではないか」と推測していたという。

仁木の方も「乱歩賞」の存在すら知らなかったが、乱歩からの手紙に驚き急いで清書し直して送る。乱歩は「アガサ・クリスティの作風を思わせる」と作品の構成力を高く評価し、選考委員5人の全員一致で受賞が決まる。授賞式には手術を控えていたこともあって出席をためらっていたが、乱歩の勧めもあって次兄らに付き添われて「神輿での登場」となったのである。仁木は童話を書き続けたい気持ちもあり「長篇小説はもうこれっきり書けないかもしれません」と挨拶する。すると乱歩から「授賞式でそんなことをいうなど、とんでもない」と叱られたという2)

その後、「仁木兄妹の事件簿」シリーズやハードボイルドの私立探偵三影潤シリーズなど多くの探偵推理小説を書き続け、乱歩は仁木を「掌中の珠のように慈しんだ」という3)

「明るい推理小説」の魅力

『猫は知っていた』には探偵は登場しない。作者とその兄を投影したと思われる兄妹が日常生活の中で謎解きをしていく。小柄で肥満体、感情豊かな音楽大学生の「私」と、背が高くやせ型、理論派の植物学専攻の大学生の兄。この2人の、若々しい健全な会話によって物語は進んでいく。

兄妹が間借りしている個人経営の病院は、いかにも裕福で平和な家庭生活が営まれているが、ある日、同居している祖母と入院患者の一人が失踪する。しばらくして祖母の死体が発見され、看護婦の一人も変死する。登場人物は医師夫婦、2人の息子、従妹の女子高校生、住み込みの看護婦、入院患者である。外部の者が立ち入った形跡はないことが病院の見取り図で確認され、敷地内にある戦争中に作られた防空壕が猫の通り道であることが知らされる。

平凡な日常生活の描写は「犯罪を描くのに特別な設定はいらない」ことを示唆している。それまでの日本の探偵小説は怪奇的、猟奇的であるなど、非日常的な設定が犯罪の背景や裏付けとされる傾向があった。後述するように、乱歩の作品ではその「裏付け」が「身体の障害」であったりもする。「普通の人の普通の生活の中で起きる犯罪」をテーマにした仁木の「明るい推理小説」は、確かに新しい時代の到来を実感させるものだった。

乱歩作品の「毒のある障害者」像

江戸川乱歩は『踊る一寸法師』『孤島の鬼』『蜘蛛男』など、大正から昭和初期の作品で、確信的に犯罪者となっていく身体障害男性を造形している4)。彼らは社会の中心から外れた所に位置づけられていることから世間を恨み、自ら悪の道を選択して、ち密な犯罪を計画し実行する。主人公たちが社会に不適応であることの背景には「身体の障害」という事実が置かれ、それが犯罪の動機とされている。

乱歩は社会から疎外されたことによって生じる心理状態を「異常心理」として描くことを好んだ。そこには作者自身の「はぐれ者」としての姿が反映されており、そこに人々をひきつける魅力が秘められているのだと思う。反骨精神に満ちた「異形者」には不思議な存在感があり、その言動はある意味痛快でもある。しかし一方で、謎解きをする「正義の側」の探偵明智小五郎に「不具者というものは肉体ばかりでなく、精神的にもかたわなところがある」と語らせる。同じような設定の作品が次々と書かれ、「身体不具」であることは歪んだ性格や犯罪を表す記号とされていく。

福祉の現場に身を置いてきた私は、このような人物像に強い違和感を抱いてきた。これまでの経験の中で、確信的に犯罪の道を選ぶ障害ある人に出会ったことはほとんどない。世間に対する不満があったとしても、生きることに懸命にならざるをえない日常は、計画的な悪事や犯罪とは、ほど遠いのが実情のように思える。「障害はメタファであり、近代的秩序への造反である」など、いかなる解釈や説明を加えたとしても「異形=犯罪者」とするステレオタイプな毒のある表現は、現実とはあまりに距離があり受け入れ難い。このような偏見に基づいた描写は当事者を深く傷つけるものであり、また日頃、障害ある人と接する機会の少ない人たちの差別感や偏見を助長する可能性も孕(はら)んでいることは見過ごせないと思う。

2人の出会いがもたらしたもの

障害ある人に対して毒のある作品を書いた乱歩の名を冠した賞を仁木が受賞したことは、とても皮肉なことのようにも思える。この出会いが仁木の童話作家から推理小説作家への転身をもたらしたことは間違いないだろう。

では、乱歩の側には何をもたらしたのか。前述の乱歩作品は大正期から戦前までに限られている。戦後の乱歩は雑誌の編集や若手の育成に奔走し、創作としては『怪人二十面相』や『少年探偵団』など、少年向けの作品に力を入れていく。少なくとも仁木と出会った後には、身体の障害を直接の動機とするような作品は書いていないようだ。

当時の新聞や雑誌には、仁木の「人と作品」を紹介するさまざまな文章が残されている。その多くは仁木の病状や障害に触れ、家庭教育をした長兄が東大の心理学科卒だったことなどに言及している5)。そんな中、乱歩の一文は「新聞社の旗を立てた自動車がしきりに訪問し、仁木さんはその晴れがましさに面食らっておられるようである」とマスコミの報道ぶりを伝えながら、本人の身体の障害や病状については一言も触れていない6)。そのことが、いかにも乱歩らしいとも思える。

この時代、福祉の充実が叫ばれ、海外からはノーマライゼーションの潮流も伝わってきていた。数年後には東京オリンピックと並行してパラリンピックも開催される。出版業界では「差別表現」や「表現の自由」をめぐる出版事情の変化も起こりつつあった。そんな中で、仁木との出会いが乱歩の作品、障害者観に何らかの影響を与えなかったはずはないと思える。

江戸川乱歩と仁木悦子が作家として出会ったこと、仁木が乱歩に励まされて推理小説作家として大成していったこと、そして乱歩もまた、仁木から何らかの影響を受けたであろうと推測できることが、「戦後の文学史」の一端を表しているように思えてならない。

(なかのえみこ 日本知的障害者福祉協会)


【引用・参考文献】

1)仁木悦子『猫は知っていた』講談社、1957年(講談社文庫1979年)

2)後藤安彦『猫と車イス―思い出の仁木悦子』早川書房、1992年

3)新保博久「解題雑誌フリークとしての江戸川乱歩」『江戸川乱歩と13の宝石第2集』光文社、2007年

4)『江戸川乱歩全集3巻、4巻、5巻』2005年、光文社に収録

5)江戸川乱歩賞選考委員『第3回江戸川乱歩賞選評女性作家の登場を喜ぶ』1957年(日本推理作家協会編『江戸川乱歩賞全集2』1998年、講談社に収録)

6)江戸川乱歩「女性本格作家現る」『宝石』昭和32年11月号(ミステリー文学資料館編『江戸川乱歩と13の宝石第二集』2007年、光文社に収録)