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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年10月号

証言3.11
その時から私は

あの日あのとき
3.11 今、振り返って思うこと

平間洋子

私たち弱視夫婦は息子2人との4人家族。航空自衛隊松島基地のある宮城県東松島市に住んでいる。

3月に入っても寒い日が続き、私は炬燵(こたつ)で本を読んでいた。突然、強い揺れが始まり、ラジオは巨大地震と大津波警報を伝え、携帯電話はキュンキュンと地震を知らせた。家中から物が落ちて壊れる音が聞こえる。一瞬揺れが収まったかと思うとすぐにまた強い揺れが始まる。私は、前年の9月に亡くなった母に「助けて、早く止めて」と助けを求めていた。経験したことのない長く強い揺れだった。

揺れがだいぶ収まった頃、近くに住む姉が駆けつけてきた。いつも地元での活動の際にサポートしてくれるAさんが車で来て「国道まで津波が来ている。逃げるから乗って」と言うので、貴重品を捜してバッグに詰め込みラジオを抱え、姉とともに車に乗り込んだ。この間も揺れは何度も繰り返し続いていた。

道路は渋滞し外は雪でうっすら白くなっていた。私が住む地区の避難場所には、すでに津波が到達しているという。市の中心にある体育館は立ち入り禁止になっていた。隣の中学校はすでにいっぱいだったが、姉の知人に頼み一緒に座らせてもらった。

日も暮れかかってきた。弱視の私は環境が変わりしかも薄暗いため、一人で動くことは不可能だった。そして停電に断水。トイレは外の仮設トイレ…。そんな中、市内で働く長男と連絡がとれた。石巻で働く主人と次男も無事だという。家族全員の無事が確認できたことは、ホッとすると同時にとてもうれしいことだった。

長い長い夜の始まり。繰り返し襲ってくる余震。ラジオは被害状況を刻々と伝え、隣の体育館には遺体を載せた車が次々に到着する。周りでは子どもたちが怖がり、すすり泣く声が聞こえた。沿岸に住む仲間たちは無事に避難しただろうか。

夜明けとともに長男が避難所に顔を出した。海から直線距離で3キロ以上ある自宅の様子を見てくるという。昼過ぎに長男は次男とともに戻ってきた。涙がこぼれた。家の周りは冠水していて車では近づけず、家の1階は全体がヘドロに覆われているが、2階は大丈夫とのことだった。住むところが残っていることがうれしくホッとした。

その日から中学校の校庭に車を停め過ごしたが、あちらこちらで空き巣被害が発生していると聞き、4日目には家に戻ることにした。姉たちのアパートは1メートル近く浸水しているらしく、わが家で一緒に暮らすことになった。

家に戻るとまず畳を上げ、断水しているので消火栓から水を汲んで拭き掃除。汚れは思うようにはとれず、とりあえず台所を中心に片付けを始めた。食料や水の確保は大変だった。ガソリンもなかなか手に入らない日が続いた。義兄が自転車で町の様子を見に行き、その情報を基に1台の車で買い物へ行った。スーパーでは無料で品物を配るところもあった。水は1人分の給水量が決められていたので家族7人が朝夕に並んだ。

一番大変だったのはトイレ。小はどうにかなるが、大の方は義兄が物置を工夫してくれて、そこをトイレ代わりに使用した。夜明けとともに捨てにも行ってくれていた。夜も当然、着の身着のまま。2週間ほどしたころ、やっと電気がついた。1日遅れて水道が通った。町のスーパーが路上販売すると聞き、40分ほど歩いて行ってみると、長蛇の列に1人10点までの制限付きだった。

大震災から3週間後、息子たちは職場に出かけて行くようになった。残った者は、食料調達のため長い時間をかけて並んだ。このような生活が続く中、家の中が何となくギクシャクしてきていた。ちょっとした言葉の食い違いがストレスの蓄積した心を逆なでした。土日には家族全員で、復旧・修復作業に精を出した。町からは被災に関する多くのお知らせが出されたが、点字使用の私たちには情報は遅れがちだった。ご近所さんが声をかけてくれ、一緒に手続き等に行ってもらったこともあった。

4月7日夜11時45分頃に発生した最大余震は震度5。再び津波警報が出され、家族4人で車で高台に避難。2時間ほどで津波警報は解除されたが、再び停電に断水。幸いなことに2、3日で復旧した。家の修復工事も暮れには終わり、新しい年を自宅で迎えることができた。

大震災から1年半になろうとしている。いまだに余震は続いている。いろいろなことが頭をよぎる。津波で命を落とした人たち。知り合いや友達からの支援。ご近所さんとのつながり。私たち障害者。また歩き出した私たち家族はどうにか元気に暮らしているが、同じ市に住む車いすのご夫婦は、家の中でご夫婦手をつなぎ亡くなっていたと聞かされた。残念。虚しい。障害者の家庭の存在は行政関係でも把握していたはず。届けも出ていたはずなのに…。行政に尋ねてみたところ「今回は予想もしない状態だった」との答え。行政に手を借り避難した人もいただろう。このような災害弱者の存在を忘れてほしくない。

まだまだ元の生活に戻れない人もいる。少しずつではあるが、前を見て一歩ずつ進んでいかなければと思う。電気・水道・ガスのライフラインの必要さ。人の親切さ、優しさを忘れないようみんなで楽しく明るい暮らしが送れるよう願っている。

(ひらまようこ 東松島視覚障害者福祉協会会長)