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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年1月号

文学やアートにおける日本の文化史

一番ヶ瀬康子と福祉文化

馬場清

はじめに

まずは1枚の写真を見ていただきたい。これは1976年、一番ヶ瀬康子さんがスウェーデンに留学中に撮影された1枚である。隣にいる男性は、石坂直行さん。1973年に単身車いすでヨーロッパに旅行し、帰国後『ヨーロッパ車いすひとり旅』(日本放送出版協会・絶版)を発表。その後、障害当事者の立場から、「旅行」の重要性を唱え続けた日本のバリアフリー旅行の先駆者、草分け的存在の方である。

この写真は、日本のバリアフリー旅行の歴史上、燦然(さんぜん)と輝き、その後の普及に功績があった「車いすヨーロッパの旅」(朝日新聞厚生文化事業団主催)の一行が、ストックホルムを訪問、その際留学中だった一番ヶ瀬さんを迎えて行なった懇親会の際に撮影された1枚である。記録によればこのとき、一番ヶ瀬さんは「車いす17台が参加したこの旅行は、日本の社会福祉の歴史に新しいページを刻んだ」と発言したと言われている。

その後、石坂さんが発行していたバリアフリー旅行情報誌「ハンディ・ツアーズ・インフォーム」に、一番ヶ瀬さんは寄稿している。そのタイトルが「旅は人権」。その一部分を引用しよう。

「旅は私どもの生活体験を広げてくれる。それによっていろいろな自然・文化さらにさりげない人びととの出会いがある。私たちはまた明日の生きるエネルギーを得ることができる。それは障害を持っていようと、また年老いて体が不自由になろうとなるまいと、すべての人間に必要なことである。むしろ障害を持ち、年老いて体が不自由になった人こそ、生きる張りをもつために、最上の条件でその旅への権利が保障されなければならないとさえいえる」

当時、外出することすらままならない車いすの人にとっては、旅行、特に海外旅行は、まさに命をかけるくらいの大きな出来事であった。いや、それを考えることすらあきらめていたというのが実情だろう。そういう時代に、「旅は人権である」と言い切った一番ヶ瀬さんの卓見。時代を先取りする思考。この力が「福祉文化」を生み出す原動力となるのである。

なぜ「福祉文化」なのか

さて私が一番ヶ瀬康子さんと初めて出会ったのは、1989年7月16日、日本福祉文化学会発会式の時である。当時、高校の非常勤講師をしていた私は、縁あって発会式の司会を務めることになった。福祉を専門に勉強してきたわけでもなく、福祉現場で働いた経験があるわけでもない私が発起人のひとりになり、司会を務めたこと自体、ある意味、福祉文化学会の懐の深さ?を示す一例といえるが、発起人の一覧をみただけでも、従来の福祉系学会とはまったく異なる「多様性」があり、そこに福祉文化学会の存在意義、一番ヶ瀬さんが求めていたものが見え隠れしている。特に「福祉」の世界とは縁もゆかりもない人が、積極的に参画している点は注目すべき点であり、一番ヶ瀬さんが目指したことでもあった。

しかしこれは、改めて考えてみると至極当たり前のことである。

「福祉」が「人びとの幸せ」「そこに至る道筋」を考える学問であるとするならば、60億の人間がいれば、60億通りの幸せの在り方があり、それを研究する「福祉学」は当然人間そのものを学究する学問となる。となれば、幅広くさまざまな分野の方々が結集して、その智恵と技を交流、深化させ合いながら、考えていくことが必要になる。いわゆる「福祉制度」や「福祉技術」などの専門家、研究者だけでなく、広くさまざまな分野(たとえば芸術、建築、文学、メディアなど)の方々が集い、手をつなぐことで、「福祉」を国民の文化として位置づけていくことが重要であると考えたのである。

一方でこの時期は、福祉の資格化が進んでいく時代でもあった。それは福祉現場で働く人の力を向上させる上で一定の効果があったものの、科目の画一化、受験中心の風潮が前面に押し出され、本来の「福祉」を担う人材を育成するという目的と乖離してしまったことに、一番ヶ瀬さんは非常に強い危機感を持っていた。

しかもこの頃、福祉の現場では、従来の収容中心、救貧対策的福祉ではない、創造的な福祉が数としては多くないにせよ、ぽつりぽつりと生み出されてきていた。たとえばたんぽぽの家の播磨靖夫さん、たとえばねむの木学園の宮城まり子さん、たとえば「わいわい共和国」の桜井里二さん……。こうした従来の枠にとらわれない、資格制度に縛られない福祉実践、新しい創造的な文化としての福祉を創造する方々の実践を取り上げ、そこから本来の福祉の在り方を考えていく必要があるのではないか。一番ヶ瀬さんのそうした想いが、「福祉文化学」「福祉文化学会」創設へと向かったのである。

福祉文化とは何か

それでは一番ヶ瀬さんは、福祉文化についてどう考えていたのか。発会式のメッセージ、『福祉文化論』(有斐閣)の巻頭論文、『福祉文化研究』第1号巻頭論文など、一番ヶ瀬さんはさまざまなところで「福祉文化とは何か」について論じている。是非(ぜひ)、それを一読していただきたいのだが、ここでは、福祉文化ライブラリーの一冊『福祉を拓き、文化をつくる』(中央法規出版)の中から、いくつか引用する。

「ところで福祉文化とは何であろうか。簡潔にいうならば、福祉の文化化と文化の福祉化を総合的にとらえた概念である」。「社会福祉の究極の目的が、自己実現への援助であり、その在り方を追求していくことであるという視点に立つならば、文化を含み得ない社会福祉はあり得ないといっても過言ではない」。「すべての人が、草の根からの文化創造を目指して、日々の生活が営まれてこそ、文化の基盤はより広く、深まり、高まると言えよう」。「私は、すべての人の当たり前の暮らしのなかから、心ゆくまで自らを楽しみ、互いに高め合い、人間らしい生活を営むための在り方づくりを、福祉文化ということばでイメージしたい」

これらのことばが紡ぎ出される福祉文化のイメージは、どういうものだろうか。解釈はいろいろあるかもしれない。日本福祉文化学会でも、創立以来、さまざまな場面で「福祉文化の定義」について議論がなされてきたが、結論から言えば、現段階では、「福祉文化とは〇〇である」という公式見解、定義はない。

ただこれまで、さまざまな立場で福祉文化学会の活動に関わり、一番ヶ瀬さんが語り、書いてきたものに直接触れてきた私なりに、それを端的に伝えるとしたら、「福祉文化」とは「人が個人としてその人の能力を最大限に活かして生きることができるような社会を創造していくことが当たり前になるようにしていくこと」となる。その意味では、福祉文化とは「人権文化」とほぼ同義であると言える。

世界人権宣言には、第1条に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と書かれ、その後30条にわたり、人権の具体的な在り方について言及されている。その第27条には「すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する」とある。いずれも主語は「すべての人」である。もちろんどんな障害があろうが、認知症であろうが、寝たきりであろうが、年齢、性別、障害の有無、国籍等々に関係なく、「すべての人」である。その「すべての人」が、単に人間らしく生きるだけでなく、個として尊重され、その人のもつ可能性を最大限に活かしながら、自己実現をしていけるような社会の在り方、人間の在り方を考え、それを当たり前の価値観=文化にしていくこと、それこそが福祉文化だと考えている。

だからもちろん「旅」だけが人権ではなく、「音楽を堪能する」「スポーツに興じる」「遊びを楽しむ」「映画を鑑賞する」などなど、あらゆる文化が福祉化してすべての人が享受、創造できるようにしていかなければならない。また一方で福祉現場においても、文化的活動がもっと取り入れられ、一人ひとりの自己実現を保障していく取り組みがなされ、福祉が文化化していかなければならないのだ。

2012年9月、一番ヶ瀬さんが惜しまれながら、この世を去られた。もう直接、福祉文化について語られる珠玉のことばを聞くことはできない。しかしその精神を受け継ぎ、文化としての福祉を創造していくためには、これまで一番ヶ瀬さんが語ったことば、書かれた文章をもう一度味わい、そこから得られる哲学、人間学、倫理観、価値観、人生観……をみんなで交流し合う必要がある。そうすることで、本来の「福祉」が「文化」となっていくのである。そのためにも一番ヶ瀬さんがよく語っていた「冷たい頭と熱い胸」をもちながら、今後も歩みを止めないでいきたい。

(ばばきよし 日本福祉文化学会元事務局長、認定NPO法人日本グッド・トイ委員会事務局長)