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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年1月号

証言3.11その時から私は

避難の壁

吉田富美子

「避難するから帰ってきて」と、二男(成(なり):18歳)にメールを打ったのは15時10分頃。海から200メートルほどの所にあるわが家では津波警報が出るたび、義母を近くの避難所へ送り出し、私と子どもたちは車で高台に行き車内で解除を待つというのが常だったため、長男(廉(れん):19歳・自閉症)を連れての避難場所は「自動車しかない」と解(わか)っていたのでしょう。メール直後、成(なり)が渋滞を避けタイヤを鳴らして帰ってきました。

数枚の着替えをキャリーバッグに詰め、自宅を後にしたのは15時15分過ぎ。逃げる途中、ハムスターを連れに自宅に戻るという、何とも呑気(のんき)で恐ろしい危険な避難をしていました。給油ランプが点いていたので、近くのスタンドに寄ろうと思いましたが、緊急避難場所に向かう車で渋滞していたため諦め、私たちは真逆の高台へスルスルと走ったのでした。後からその渋滞で逃げきれず亡くなった方々がいたと耳にした時、もしあの時、信号を右に曲がっていたら間違いなく私たちも犠牲になっていたかもしれない…と思うと、今でも怖くなります。同時に左右、数秒、数センチ、で生死が分けられたのかと思うと本当に悔しく、多くの方が亡くなったなか、生きた私たちも震災犠牲者としてこの震災の体験を伝え継ぐために原稿依頼をお受けしました。障がい者を抱える者の避難と避難所暮らしに関することを中心に振り返ります。

廉を抱えて避難所に行こうと考えたことがなかったのは、障がい(自閉症)が重く、独特の言葉や体の動きで周囲の視線を浴びてしまうことのストレスと、周囲の方々に迷惑をかけないように神経を集中し続けなければならないこと、何が無くても事前に頭を下げ理解を求めておかなければならないという煩わしさがあったからです。今回もガソリンが当日の夜20時には切れ、外気温と変わらない極寒に震え、軽自動車の狭さで一睡もできなかったにもかかわらず、2日目の夕方まで避難所の体育館に行くことをためらいました。誰もが助けを求めて集まる避難所の敷居が私たちには高かったのです。長期化すると覚悟した時に「子どもたちを守るには行くしかない」と腹をくくり、決死の思いで体育館に向かいました。

しかし、入るやいなや不安が現実となってしまいました。学校生活やスペシャルオリンピックスの活動で“体育館は体を動かすところ”と学習していた廉が、ちょっと目を離したすきにピョンピョンと飛び跳ねながら走ってしまったのです。避難所には疲れ果て眠る人、食事をとる人、雑談する人、泣きながら家族を探す人等、さまざまな人が混在します。狭い車内から解放された解放感もあったと思いますが、その廉の素直な行動は、状況にはそぐわず、「走らせるなー!!」と大きな声で罵声を浴びてしまいました。その声は体育館中に響き渡り、すべての視線が一斉に私たち親子を突き刺しました、私は頭が真っ白になり無意識に息子の腕をひっぱり、土足で歩く床に伏せ押さえ、毛布をかぶせ「廉君ねんね、ねんね…」とずっと繰り返したのでした。

体育館では、食事の準備、配布、掃除等を避難者が行うことになったのですが、廉がいることで思うように手伝えず、ここでも人のお世話になるだけなのか、謝り続けるのか、と次のストレスになり、逃げるように体育館から行政の支援が多くある指定避難所へ移動しました。そこは体育館とは全く違う環境で作業も少なく、震災から1週間でようやく体と精神を休め、眠ることができました。ただ、その頃には、廉は昼夜、毛布を頭まで被(かぶ)り横になってばかりいて、可哀想(かわいそう)には思いましたが、あの時には正直それが有り難かったというのが私の本音です。

その後、障がい者・高齢者から優先に、空いている市営施設を仮設住宅用に貸し出す公募があり、当然のように応募しました。入居可能の連絡を受けて宝くじにでも当たったかのように喜んだのですが、行ってみるとそこはあまりにも古く、風呂、台所、洗濯機、トイレが共同、お風呂は一般家庭の大きさに10家族ほどが時間短縮を理由に銭湯のように混同で入らなければならないものでした。私たちが入居した時には、電気もガスも不通、缶詰はあるが箸がない、風呂はあっても入れない状況でした。4畳半2部屋には流し台も無く、壁で仕切られた空間があるだけで避難所より劣悪な環境と言えるような施設でした。幸いにもそんなわが家の状況を聞き取った夫の会社で、取り壊し寸前だった社宅を提供してくださることになり、その仮設住宅は2晩で離れることができました。その配慮は、災害救助法からすると自立とみなされるそうで、日本赤十字社からの家電、布団、支援物資など「みなし仮設」等も対象となった支援からは一切外されるという結果となりました。もちろん、その後数多く建設された仮設住宅に入る対象からも除外されました。

障がい者の廉を少しでも環境の良い所へ、迷惑をかけないように…と動いた結果、どんどん苦しい所に追いこまれ、いやが応にも自立生活を強いられる状況になってしまいました。震災直後、障がい者専用の避難所があり、仮設を待てれば無理な自立をしなくて済んだと思います。障がい者は支援学校、高齢者や乳幼児は保健センター、病人・ケガ人は病院へと、最も必要な支援はどこで受けられるのかを決定・周知している避難計画が作られていれば、物資の配布や支援スタッフの配置などを効率よく行うことができるのではないかと思いました。

バタバタな避難生活を過ごしましたが、少し落ち着き、現在は、自宅前で親たちとボランティアで十数年活動を重ねながら法人化する直前で流失した作業所をまた再建しようと、ゼロからの再出発ですが頑張っています。

(よしだふみこ 大船渡市在住、作業所「かたつむり」)