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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年4月号

1000字提言

心のコミュニケーション

川田明広

新訳聖書(ヨハネの福音書)には、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった」との有名な一節がある。この「言葉」は、ギリシャ語の「ロゴス」の訳とのことで、概念・倫理・理念を表し、内言語である思想と、それを他人に知らせる外言語の重要性を表しているという。何らかの原因で内言語(内なる思い)が保たれていても、それを言葉(外言語)で表すことができなければ、人にとって受け入れ難いほどの苦痛となろう。

私が専門としている神経内科では、病気の性質上、発音が正しくできなくなったり(構音障害)、呼吸筋麻痺により気管切開をして人工呼吸器を使用しているため言葉が話せなくなったり、手足の麻痺により文字で文章を綴れなくなる患者さんが多い。まさに内言語(伝えたい思い)が保たれていても、外言語の障害で思いを伝え難い場合が発生するのである。

一方、言葉による言語に頼らず、身振り手振りだけでなく表情などを通じて思いを伝えるといった「以心伝心」という言葉もある。これはもともと禅宗の語で、言葉や文字で表されない仏法の神髄を、師から弟子の心に伝えることを意味したようである。比較的単一文化性が高い日本人の間だからこそなせる技とも言われている。

しかし、たとえ夫婦間や親子間であろうとも、日頃からお互いに意思(内言語)を伝えあうコミュニケーションがなければ、以心伝心が成り立ちにくい事は自明の理である。複雑な社会の中で、医療処置の選択を含めて、予期しないさまざまな意思決定が求められる現代では、想定されるすべての事象についての意思疎通は、本来無理である。

しかし、前記した病気などで外言語を表明できなくなることが想定される場合、辛い内容であろうとも、あらかじめ親密圏の人々と十分な話し合いを行うことが重要である。一般に欧米人ほど外言語でコミュニケーションを取っていない日本人は、自分自身の思いを言葉に出して周囲の人と話し合いを持つこと、あるいは文字に書いて伝えることによって、初めて自分の考え方が整理される場合もある。そうした日常の努力があれば、本来少ない外言語でも以心伝心のようなハート・トゥ・ハート・コミュニケーション、つまり「心のコミュニケーション」ができる日本人であれば、たとえ難病に罹って外言語が障害されたとしても、周囲の人と心のコミュニケーションを継続し、人生を生ききる力を発揮できるのではないだろうか。

(かわたあきひろ 都立神経病院医師)