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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年4月号

文学やアートにおける日本の文化史

障害者が舞台に上がる時

佐々木卓司

“今、戦後の障害者が歩んだ軌跡を記録しておかねば存在そのものが消えてしまう!”88歳になられた花田春兆氏が必死の思いで呼びかけた企画。この呼びかけに応えて、医療、教育、障害者運動の各分野に関わった方々の原稿が昨年の本誌8月号「戦後の障害者史(1945~1975)―ゼロからのスタートを省みる」に掲載された。

ところで、芸能はどうなっていたのでしょう。芝居、音楽、舞踏これらの領域に自らが踏み込み、芸を生業としている障害者に焦点を当てて原稿を書いてくださる方はいませんか?という編集部の呼びかけに、つい手を上げてしまった。なぜなら、実は私もこの歳(本年63歳)でミュージシャンを目指そうと本気で考えているから非常に興味津々だったのだ。

早速、本題に入ろう。まず芸能でも私が目指す音楽ということで日本史を遡(さかのぼ)れば、平家物語を語り継いだ琵琶法師にはじまり、瞽女(ごぜ)さんやお琴の宮城道雄氏の名前が上がる。我々が青春時代を過ごした70年代は長谷川きよし氏が有名だ。最近で言えば、2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行氏が国際的に脚光を浴びた。さらに海外に目を向ければ、カントリーギターの父と呼ばれるドック・ワトソン、ジャズシンガーのレイ・チャールズ、スティービー・ワンダーといずれも視覚に障害があるミュージシャンで数えだしたら枚挙に遑(いとま)が無い。音楽の世界、そこは内外問わず、視覚障害者の独壇場だった。

では、視覚以外の障害のある人で芸事で生業を得た人がどれほどいるだろうか。江戸時代や第二次世界大戦前までは、肢体不自由者の芸事と言えば、見世物小屋か、奇異な芸人というところかもしれない。それこそ衛生博覧会なる得体の知れない場所で標本扱いにされた障害者もいると聞く。

戦後のテレビの登場により、昭和37年から放送された人気コメディ番組「てなもんや三度笠」で珍念役の白木みのる氏を障害者と捉えるかは難しいところだが、70年代のフォークソングのブームに乗って登場した泉谷しげる氏は小児麻痺による肢体不自由者で、まさに芸事で生業を得ている一人だ。もう一人、人間国宝にもなっている歌舞伎俳優の坂東玉三郎氏も小児麻痺の肢体不自由者として有名だ。どちらも障害の程度は軽く、生活に著しく支障を来すことはないであろう。しかしそれ以外には私はあまり思い当たらない。そこで「ポピーズ」というグループ名でバンドを組んで活動していた小児麻痺(ポリオ)と脳性小児麻痺(CP)の友人がいるので、先日、彼らに話を聞きにいった。

グループ名はお気づきのとおり、障害名であるポリオとシーピーからとってポピーズになったそうだ。まさに彼らも私同様のフォークソング世代で、CPの関根氏が作詞・作曲とキーボードを担当し、ポリオの江間氏がギターとボーカルを担当、なんと20年間活動を続けてきたという。だが6年前に体調が悪くなり、ついに解散したそうだ。

彼らによると、やはり70年代に音楽を生業としている障害者は少ないという。なぜなら、まず生活自体が成り立たなかったからで、彼らも音楽活動ができるようになったのは、生活支援体制などが整備され、自立生活が安定してからだという。実は、障害が重度であればあるほど、視覚だけの障害者より肢体不自由者の方が社会で生きていくのが困難なのだ。

つまり肢体不自由者にとっては、70年代に芸能の道に進む土壌はまだできていなかった。それが芸能の道を目指す者が少数である理由だと思われる。

ボーカル担当の江間氏の声は伸びやかで、美しい。作詞・作曲の関根氏も魅力的な曲を紡ぎだす。だが、その彼らの才能を最初に見つけたのは、福祉に携わるA新聞社の論説委員だったO氏だったのが、彼らのその後の道を決定づけたように思われる。当時、新聞にも紹介された彼らに多くの出演依頼が舞い込むが、それらの多くが福祉に関わるところからのものだったようだ。

長年、障害者が音楽に関わる活動を支援する団体として有名なのが「わたぼうし音楽祭」だ。また近年では、その出場者の音楽的レベルの高さで話題を呼んでいる「ゴールドコンサート」がある。これは、主催者の貝谷嘉洋(かいやよしひろ)氏がデンマークで毎年17万人規模で開催されるグリーンコンサートの日本版として始めたものだ。だが主催者の思惑とは別に、日本の場合これらの活動が、いったん福祉的な活動として認識されてしまうと、観客は当事者の芸の評価ではなく、その障害者の芸に対する努力や、これまで歩んで来たであろう苦難の道を想定して感動してしまったりしかねないのだが、その回避こそが、これらの試みの目指すところであり、それはまた、当事者本人の芸に対する意気込みと真剣さにかかっている。

70年代に青い芝運動に関わって生きることの意味を深めていった金満里氏は、肢体不自由者の劇団「態変」を1983年に旗揚げし、前衛芸術舞踏というジャンルで興業を続けてこのほど30周年を迎えた。彼女と舞台に上がる俳優すべてが肢体不自由者で、彼らがその身体のすべてを持って表現する舞台は、まさに“美とは何か”、人間の“存在する意義とは何か”を観客に問い詰めてくるものだ。その舞台を美しいと見るか、異様と見るかは、見る人の感性に委ねられているが、彼女はその脚本・演出・舞台構成・スタッフ体制の維持から、劇団の財政までの一切を30年間やり通してきた。彼女が劇団の興業という主幹部分で決意していることは、おそらく福祉の領域だけには絡み取られないようにしたい、ということではないだろうか。だが、ここが一番高いハードルであろう。

芸人はお客をどれだけ惹(ひ)き付けるかが勝負なのだ。ところが肢体不自由者が舞台に上がった途端、客が引いてしまう。車椅子のお笑い芸人として有名なホーキング青山氏も初舞台で高座に上がったとき、客が呆然としてしまい、拍手もなかったという経験を2月号(「障害を笑いに変える」2013年)に書いている。

NHKの「バリバラ」で名が知れるようになった障害者のお笑いコンビ「脳性まひブラザース(略してノーブラというそうだ)」のダイゴ氏は、自分たちの芸風で客の笑いをとりたいが感動されてしまうことが度々ある、これがほんとに悔しいという。お笑い芸人が、客に感動されたらおしまいである。笑われてナンボの芸人なのだから。

なぜ、こうなってしまうのだろうか。もしかしたら江戸時代までは長屋のごとく皆いっしょくたに、いろいろな職業の人もごちゃ混ぜに暮らしていた人々が、明治政府以降、富国強兵の旗の下に、生産力のある者と無い者とに価値選別され、さらに現代では、オシ、ツンボ、メクラ、セムシなどのいわゆる差別用語が禁止となり、我々は、「障害者」という十把一絡げの個性の無い生き物にされてしまった。

さらに“人に優しくしよう”でいいはずなのに、“障害者に優しくしよう”となってしまったことが問題を複雑にしてしまったように思う。そして学校教育も健常者と障害者で選別され、いつの間にか健常者の暮らしと障害者の暮らしが、別のもののように分かれて行き、健常者の暮らしの中に障害者がいないことが“普通の暮らし”となってしまった。そんな健常者が舞台に上がった我々を見て、障害者の存在に驚き、次にどうこの事態に自分を置いたらいいのか判(わか)らず、体が知らずのうちに引いてしまうのだ。拍手も忘れて!

だが、その感覚を批判したところで何の意味も無い。それよりこの社会の中に、また芸能界と言われる世界に、いろいろな障害をもつ人が当たり前にいて、何の違和感も無く、自然な事として映る社会を造り上げていけば良いだけなのだ。それには我々がどこにでも出て行き、やりたいことは堂々と誠実にやり続ければ良いのだと思う。

神部浩氏(通称かんべちゃん)という脳性麻痺の俳優さんをご存知だろうか。多分誰もが1度や2度、スクリーンを通して彼に会っているはずだ。なぜなら、彼は映画出演本数だけでも29本に達し、1996年には山田洋次監督作品「学校2」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞まで受賞している。その上「バリバラ」のナレーション、CM、ラジオパーソナリティ、もちろん2010年秋から放送されたNHKの朝ドラ「てっぱん」にも、アパートの2階に住む画家として出演している。

彼はCPという障害をそのまま役作りに生かしていて、スクリーン上の彼の存在は、その場面に何の違和感も与えないどころか、むしろ彼の障害特有の動作が醸し出すふんわりとした温かさが、見るものに不思議な安らぎのような、ホッとするような感覚を与えてくれるのだ。

彼は自分が障害者であるということをアピールすることもしなければ、健常者に負けないようにと、障害を克服しようなどということもしない。まったく自然に役者という世界で生業を得ているのである。彼のような存在こそが、ミュージシャンを目指そうという私の理想とするところなのだ。

(ささきたくじ アマチュアバンジョー奏者)