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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年5月号

重い障害のある人を主体にした地域生活支援

李国本修慈

私は現在、兵庫県伊丹市でいわゆる地域生活支援ということを生業としている。特にその対象を「障害のある」とされる方々へ行なっている訳ではないのだが、結果として、関わる多くの方が重症心身障害といわれる人たちである。

重症心身障害といわれる方々の地域生活を考える際、この10年ほどの間に制度は飛躍的に整えられてきたにもかかわらず、10年前と同じような訴え・生き難さを抱えた方は今も居続けるということの認識を持ちたいものである。

「重い障害のある人の生活支援」を考える際に、特別な思考が必要なわけではない。私たちと同じように自らが望む場所で暮らし、活動することを支援する、というよりも共に行なっていけばよいということである。しかし現状では、たとえば医療ニーズが高いとされる方々は「選べる」サービスどころではなく、「支援」という言葉とはほど遠いところに置き去りにされている感すらある。

私は二十数年前に出合った光景を今も思い出すことがある。その光景とは、児童福祉法による居住施設で、午後4時頃、職員に抱きかかえられ自らのベッドに移動し、その場で夕食が始まり、翌日の午前9時過ぎまで、高いベッド柵の中で過ごす方々。多くの方は、当時二十代だった私よりも年上であり、重症心身障害児(者)といわれる方々であった。

「本人主体」を考えた際に、重症心身障害、あるいは超重症児等といわれる方々の「思い」を解(わか)り得るのか? といったことがあり、「解らない」あるいは「解り難い」というのは確かにそうなのであろうが、支援を業としてきた少なくない者たちは「解らないことを無いこと」としてきたのではなかろうか?ということも問うてみたいものである。

私たちは現在、居宅介護を中心に、訪問看護、移動支援や日中一時支援、短期入所事業等を行うことで、当たり前に、どの人にもある24時間をできるだけ長く共に過ごすということを十数年間行なってきた。そこでは、たとえば痰の吸引や経管栄養、あるいは人工呼吸器管理といった医療的ケアも特殊な行為(ケア)とせず、最も身近で過ごす「人」が行う、というよりも、「一緒にする(痰を出す、食事を摂る、呼吸をする)」ということを意識してきた。おそらく重い障害のある人への支援、というよりも、その人が当たり前に暮らしていく、その人と一緒に過ごしていくには、最低でも、そんな意識は必要ではなかろうか。

私たちが関わりを持たせていただいている方々には、遷延性意識障害とか超重症児とかいわれる人がいらっしゃるのだが、彼女・彼らの傍らに「長く」居ることで、鮮明に彼女・彼らの「思い」が「在る」ということに気付き、私たち周辺の人々との関係によってその存在が明らかになり、力を増していくのである。

そして、遷延性意識障害といわれる彼らが私たち支援者と共に人と交じり合う中で、さまざまな思いが交錯していく様だとか、超重症児といわれる彼女らが地域に居るということで、子どもたちはもちろん、大人の意識をも変化させ、あるいは価値観の変換をもたらすこと、また彼女・彼らが既成の定められた場所のみではなく、私たち支援者と共に地域へ出かけていくことで、新たなコミュニティが生まれるといったことも私たちは実感してきた。何より関わる私たちに大いなるメッセージを伝え、さまざまな繋(つな)がりを生じさせているのも彼女・彼らの「力」であり、「社会的はたらき」であるといえる。清水1)はそのことを【重症心身障害の人の地域における「活動」は、地域社会の中に新たな価値観をもたらし、地域に連帯と活力を生む。このことは、重症心身障害の人の社会的「はたらき」でもある。】と述べている2)

数年前のことであるが、私も関わりを持たせていただいていた重症心身障害といわれる青年の母親が他界され、しばらく私どもの事業所に短期入所(単独型)3)として暮らすことになったのだが、突如、当該市のケースワーカーが入所施設の手続きをしていることが判明し、もちろん私たちは「彼に聞くこと」を求めた。彼は重度の知的障害といわれる方で発語は無い。しかし、関わる者たちで彼を囲んで「聞くこと」「話すこと」によって、少なくとも彼は自らの地域から遠い入所施設で暮らすことを善しとはしていないということが確認されるのである。それが彼の決定となり、それは、関わる者皆で「よってたかって考える」ということであり、その決定というものは、彼と関わる者たちとの間で揺らぎ続け、変わっていくということも常に意識したいものである。

現在、私たち「しぇあーど」には、前記の彼と同じく、重症心身障害といわれ呼吸器ユーザーでもある青年も暮らしている。彼が私たちと暮らすようになる際にも、彼に「聞く」ことから始まるのは言うまでもない。そして夜間を含めて彼と過ごす人は「医療職」といわれる者ではなく、彼と日頃から長く一緒に居る「人」たちであり、それが「重い障害のある人を主体とした地域生活支援」を実現する基本的な在り方ではないかと私は考えている。決して、ケアの内容や障害の有無や程度で分けられる(あるいは避けられる)ことがなく、ある職種の者のみにしか受けられない支援の中に「人」を置くことが地域生活支援とはいえない。

また「重い障害のある人」といわれる方々の「短期入所」として、病院がその機能を受け持とうという動きがある。これは、数的不足を補う面がある一方、どうしても病院等の体制(常に人が傍らに居ることができないという)に合わすことのできない人がおり、「しぇあーど」はそういった方々が「居られる場」でもあり、それは「福祉型」や「医療型」4)という「枠・カタチ」に、ご本人を嵌(は)め込まないということである。

しかし、間違いなく必要な医療との関わりも大切な要素である。昨今「多死社会」に向かうという社会背景の中で「看取り」「緩和ケア」「在宅医療」が、また、NICUの満床問題という背景の中で「小児ホスピス」「小児在宅医療」が普及していき、ステキな医療職者が、障害児・者といわれる方々の暮らす「地域」に出現してきているのだが、あえて私は、次の文言を医療・福祉・教育・行政・司法といった地域生活支援に関わる方々にお伝えしたい。「最も大切なことは、ご本人が【何処(どこ)で誰とどう暮らしたい】のかということ」「決して何らかの理由でその人が望む暮らしを妨げられてはならない」

今こそ、彼女・彼らの思いを聞くということ。そのことが「重い障害のある人を主体とした地域生活支援」の基本であり、誰もが暮らしやすい地域へ繋がると確信している。

(り くにもと しゅうじ 特定非営利活動法人地域生活を考えよーかい、有限会社しぇあーど)


【注釈】

1)清水明彦:西宮市社会福祉協議会事務局長兼障害者相談体制整備室室長

2)障がい者制度改革推進会議総合福祉部会意見書「障がい者総合福祉法(仮称)制定までの間において当面必要な対策について」:清水明彦

3)単独型(福祉型)短期入所事業所「こうのいけスペース」:医療ニーズが高いといわれる方々も多数宿泊されている。

4)短期入所は「福祉型」と「医療型」での報酬額が大幅に違う。