音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へ ナビメニューへ

  

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年5月号

文学やアートにおける日本の文化史

今岡秀藏の肖像

三澤了

この度、編集部から、漫画家としての今岡秀藏氏について書いてほしいと依頼を受けた。今岡さんが漫画を描いていたことは知っている。描いているその場や、出来上がった原画を見せてもらったこともあるが、漫画家としての彼を評するほど詳しくは彼と漫画の関係は知らないし、今岡さんの人物像を隅々まで描くには、私より適任の方が何人もいらっしゃるはずである。

こうしたことから担当者にお断りを申し上げたのだが、漫画のことだけではなく、若い時代の今岡さんについて書いてくれればよいということになったので、私の知っている範囲の今岡秀藏氏について書いてみることにした。

今岡秀藏氏との出会い

今岡さんと初めて出会ったのは、今から40年ほど前の1973年頃に大須賀郁夫さん(故人)の紹介で知り合った。大須賀さんや今岡さんは当時、生活圏拡大運動という、今でいう「福祉のまちづくり」運動を立ち上げ、そのリーダーとして各地にその輪を広げていく活動をしていた。彼らの誘いに応じて私もその輪の中に入れてもらい以来、今岡さんとは頻繁にお会いするようになった。彼がまだ20歳そこそこで、当時は私も30歳代で、家族と一緒に新宿区で暮らしていた。今のように電動車いすで電車を使って八王子と新宿を行き来するというようなことができない時代だったから、私が大須賀さんの車に乗せてもらったり、今岡さんがお母さんの運転で都心に来たりしていた時に顔を合わせていたのだろうと思う。

彼は「ともしび会」という障害者サークルもやっていたようだが、私が出会ったころは「忙しくて季刊誌が半年以上出せない」と窮状をこぼしていたが、次から次へと自分で仕事を抱え込んで、どこかでそれを楽しんでいるような人であった。彼の頭の中では常に新しい発想や遊びや思念が浮かんでは消え、消えては浮かびしているような状況で、まるで子どものようにそれらを追いかけ回っていたのではないかと思われる。

漫画家・今岡秀藏氏

ちょうどこの頃から漫画の連載を始めたのではないだろうか。10代から本格的に絵を学んだり、デッサンなどは描いていたようであるが、彼の遺稿(「闘癌記」1997年、非売品)によれば、お金をもらって日本社会党の「社会新報」という新聞に4コマ漫画「アゴヒゲさん」を週に2回、7年間描き続けたとなっている。

彼は重度のポリオによる障害で、上肢も下肢も体幹もすべてマヒしているのだが、奇妙なことに手首から先だけは器用に動きまわらせることができていた。まるで、手首から指先だけが独自の意思を持つもののように動き回る光景は、傍(はた)から見ているとちょっと不思議な感じがするものだった。

4コマ漫画の材料は、社会新報という性格上、政治ネタ、時局ネタが多かったのだろうが、「アゴヒゲさん」が出合う事象を面白(おもしろ)おかしく風刺して描いていたのを思い出す。週2回のペースで発刊される新聞に間に合うように版下を仕上げるのはかなりの重労働だったようで、約束して会いに行っても、「描きあがらないから待っていてくれ」とか「ほかの用事を先に済ませておいてくれ」と悪戦苦闘しているところに出くわしたことも度々ある。

版下が書きあがると本当に晴れやかな顔になって、コーヒーを飲みに行こうといって散田町の自宅から西八王子駅前にあるコーヒー専門店まで連れて行ってもらったりしたこともある。漫画を描き終えて、コーヒーを飲みながら店のマスターとゆったりと話をするというのが、当時の彼の至福の時間だったのではないだろうか。

活動家・今岡秀藏氏

今岡さんは漫画や絵を描くことだけに収まっていられる人ではなかった。先にも書いたが、常に何か新しいことを追いかけている人で、私が会い始めた頃は、八王子地域の若者たちと手を組んで「ユメトピア」という地域サークルをつくり、八王子市に対して、車いすのまま乗車できる自動車(今ならよく見かけるリフト付きワゴン)を走らせろという要求を出し、お金は自分たちも集めるということで、バザーやらコンサートやらを実施していた。この「ユメトピア」運動で「わかこま号」という車が走り出し、現在の移送サービスのはしりとなった。

この運動が発端となって、後の通所事業所「若駒の家」が生まれたのをはじめとして、多くの八王子の地域サービスが生み出されたものと思われる。

漫画を連載していたぐらいだから、絵が上手いのは当然であるが、機械ものや工学的なものにも極めて強い興味を示し、当時は出回っていなかった電動車いすにも強い関心を持ち、現在は廃止されてしまった東京都補装具研究所などと協力して、電動車いすの国産化に向けた研究などにも携わっていた。

はっきりしたことは言えないが、電動車いすを日本で最初に日常的に乗り回していたのは彼ではなかったかと思う。彼の身体機能に合った電動車いすをお父さんの設計で、町工場の協力で作り上げたということを聞いた記憶がある。東京都が電動車いすの貸与制度を開始し、何人かが電動車いすを使い始めると「電動車いす使用者連盟」という大仰な名前の組織を立ち上げ、国に対して電動車いすの給付を開始するように執拗に働きかけた。こうした時に彼の説得力ある主張が大きく生かされ、1979年には電動車いすが補装具となり、国の給付が開始された。

障害者運動家・今岡秀藏氏

彼が一番忙しく、多面的な能力を発揮したのは、1970年代半ばからの障害者運動の中で活躍し始めてからであろう。何しろ頭の回転が速く、発想がユニークでそのうえ弁が立つということで、障害者運動のさまざまな場面でリーダーシップをとることとなった。この時期はいくつかを同時並行的に取り組んでいたと思われるが、古くからの知り合いである船橋の宮尾修さんに頼まれて障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)の事務局長を引き受けたり、東京都が1976年から始めたケア付住宅検討会の委員となり、積極的にケア付き住宅(後の八王子自立ホーム)の建設に関わり、併せて幼い時からの障害者の所得保障確立に向けた運動に精力を注ぎ始めた。

障害連の事務局長自体はそれほど忙しい仕事でもなく、1週間に1回か2回、御茶ノ水駅近くにあった総評会館(現・連合会館)に出向いて電話連絡や原稿書きなどをやっていたが、この頃はその後の彼の動きから見るとまだまだのんびりしていた時期で、事務仕事のかたわら連載漫画の構想をひねっていたようなことも稀には見られた。障害連の事務局長は、清瀬療護園にいた太田修平さんが運動に関わり始めた頃に太田さんにその席を譲り、先に述べたケア付き住宅建設と、障害者の所得保障運動に力を注いでいった。

彼の運動の中心を占めたケア付き住宅建設と運営ならびに所得保障を確立させる運動は、東京青い芝の会の磯部真教さんとの関わりを抜きに語ることはできないだろう。1981年に東京都のケア付き住宅第1号として自立ホームが誕生し、その運営を担い続け亡くなるまで、一貫して今岡さんと磯部さんはお互いを必要とし、信頼しあって活動していた。私も検討会のメンバーとなり自立ホーム建設を共に進め、後には自立ホームの住人となり6年間、彼と部屋を並べて暮らしていたが、お2人の結びつきの硬さは、とても割り込めるようなものではなかった。

自立ホームづくりに際しては、東京都に対して十分な予算をつけることを要求して何回も対都交渉を重ね、時には徹夜交渉に及ぶこともあったが、磯部、今岡コンビで交渉戦略を立て、その戦略に沿って今岡さんが、東京都の担当部・課長相手に舌鋒鋭く切り込む姿が何回となく見受けられた。

自立ホームが開所してからも自分たちが作ったものだから、自分たちが責任を持って運営していくという考え方の下に、磯部さんが自立ホーム所長、今岡さんが入居者自治会の代表として幼い時からの障害者の自立を追及していった。所得保障確立に向けた運動は、特に脳性まひ者の独立した生活にこだわる磯部さんが長年取り組んでいた課題で、今岡さんという若い活動家を得て、この頃、活発に運動を展開したものである。この課題に取り組むために「全国所得保障確立連絡会」という団体を組織したが、こうした組織作りにも今岡さんの顔の広さが大きく役立っていたものと思われる。1985年に障害基礎年金が創設された事の一端には、この2人を中心とした障害当事者の大きな力があったものと思われる。

1996年9月、今岡秀藏氏は亡くなった。享年45歳。あまりにも若く、あまりにも惜しまれる死であった。子どものような無邪気さと老成した思想家のような説得力を併せ持った人であった。表面的で型どおりの自立ではない、人としての真の自立を追求し続けた人であった。

(みさわさとる DPI日本会議議長)