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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年6月号

1000字提言

変化の痛み

熊谷晋一郎

身体に、正常も異常もない。どのような発達の仕方も承認されるべきだし、社会は多様な生に合わせるべきだ、という考え方は大切だ。一方最近になって、障害が重くなったり、あちこちが痛み始める、いわゆる「二次障害」が問題になってきている。矯正や治療を施すのではなくて、ありのままの私の身体を認めよ、とこれまで主張してきた身体障害者だが、二次障害についても「ありのまま」でいいのか、それとも治療を求めていくのか、考えていく必要がある。

よく言われるのは、以前よりも「できなくなること」については、身体に介入する治療ではなく、社会に配慮を求めるべきだが、「痛いこと、生存が危ぶまれること」については、身体に介入する治療が必要だ、という整理の仕方である。これまで障害者運動は、できないことが悪いんじゃない、社会が配慮しないのが悪い、と言ってきたわけだから、二次障害でできないことが増えても、それは治療の対象ではない、ということになる。しかし、痛いのは困ると。

「できないこと」は治療・強制の対象ではなく、「痛いこと」は治療の対象である、という分け方は、私は非常に危ないものだと感じている。たとえば、障害がどんどん進行していくとき、「私の身体はこのようなものである」というボディ・イメージと、実際の身体の間にずれが生じ、そのずれを痛みとして感じる場合がある。その痛みを取り除くためには、現実の、できないことが増えた身体に合わせる形で、ボディ・イメージをアップデートしなくてはならないのだが、このアップデートが可能になるためには、障害が重くなった身体を、周囲の環境、社会が受け入れ、生存が可能になるよう対応していく必要がある。

もし、周囲の受け入れと対応が不十分なせいで、ボディイメージが更新できずに、そのせいで痛みを感じている進行性の障害者がいたとして、「痛みには治療を」ということで強い鎮痛剤が投与されたらどうだろう。痛みは消えるかもしれないが、社会の側の問題は不問に付されたままになってしまう。「できないこと」と「痛いこと」とは、相互に関係しあっているということを認識することが、何より重要だ。

このことは、たとえ障害が重くても安定した身体状態を享受している当事者が見逃しがちだった、新たな問題を提起している。障害は、「質」や「量」だけでなく、日内変動や進行といった、「継時的変化」の次元も併せて考えなければならないだろう。

(くまがやしんいちろう 小児科医、東京大学先端科学技術研究センター特任講師)