「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年7月号
被後見人の選挙権回復訴訟
~被後見人の選挙権を奪う公職選挙法第11条第1項第1号の違憲性を争う~
杉浦ひとみ
1 本件訴訟の概要
本件は、成年後見制度を利用して被後見人となったことにより選挙権を奪われた当事者が、選挙権を侵害するものであり憲法違反であるから、選挙権の存在を確認せよと、2011年2月1日、東京地方裁判所に裁判を起こしたものである。
原告となったのは、茨城県に住む1962年生まれ(当時48歳)のダウン症の女性。女性の父親は、障がいをもつ人の人権問題に真剣に取り組んできた方で、当事者の自立と尊重を図る制度として制定された成年後見制度の趣旨を信頼して、娘の成年後見を申し立てた。将来の財産の管理に不安があったからである。平成19年2月17日に、家庭裁判所の審判で後見開始となった。ところが、その後、女性には選挙はがきが来なくなった。これまで成人以来27年、原告は欠かさず両親と共に選挙に行っていたのであり、選挙公報を見ながら投票を行なっていた原告の女性は、「選挙に行けなくなってつまらない。もう一度選挙に行きたい」と訴えている。
*公職選挙法第11条第1項 次に掲げる者は、選挙権及び被選挙権を有しない。第1号「成年被後見人」
2 「この裁判は勝てる」との確信
(1)選挙権行使に能力は必要ない
父親からの相談を受けた後、この問題について一から考えてみた。選挙に能力が必要だというのは、特に疑われてこなかった。そう言われればそのような気もする。しかし、そうだとすると、その能力はIQで決めるんだろうか。その線引きはIQいくつならいいのだろうか、60か、80か。IQは人を判断する能力なんて測っているのだろうか? まてよ、大学を出ている人たちでも、情報に流されたり、私情に流されたりもしているではないか。むしろ辛い人生の荒波を越えてきた障害のある人の方が「この人はいい人」という見る目はあるのかもしれない。また、高齢で財産管理能力が低減し、後見人をつけた人でも、長い人生で培った経験から、人を見る目はあるのではないか。そもそも選挙能力とはどんなものなのか。誰がそれを見極めるのか。それを、選挙で選ばれる国会議員が法律で定めるのはおかしいだろう。ここまで考えた時に、選挙権に能力は必要ないという主張をすべきだということで方針が決まった。
そして、それは、法的にも裏付けることができる。
ア 法は能力での制限をしていない
選挙権は、民主性の根幹に関わる主権者としての重要な権利である。憲法は「成年による選挙」という年齢での区別を設けているだけである(15条3項)。つまり、どこまでの能力が備わったら主権者としての具体的権利行使の主体として扱うか、ということについての画一的な年齢をもって区分することにしたのである。ここには、成年間における能力のばらつきも、加齢による能力の衰えも規定されてはいない。これは、憲法が、選挙権の行使主体を、能力を根拠に多数者が判断できることを予定していないと考えるべきである。
国際人権規約の自由権規約25条は、障がい者についても差別も不合理な制限もなく「普通かつ平等の選挙権に基づき」投票する権利を保障している。また、日本政府が批准はしていないが署名までしている障害者権利条約29条も障害のある人の選挙権の存在を前提としている。
イ 被後見人にこそ選挙権を認める意義がある
1.被後見人となる者こそ、国などの施策を必要とする者であって、選挙によって国政に声を届ける必要があるのである。
2.主権ある存在であることを宣言することによる意義。被後見人に選挙権があること、選挙権を行使することの意義は、特別な価値がある。すなわち、現実の社会の中で障害者や高齢者などに対して偏見や差別があるも、同じ主権者であるという憲法的保障の意義は何より大きいのである。
(2)成年後見制度の借用は合理性がない
この裁判では、選挙権に能力は必要でないという主張を中心的な主張と考えた。しかし、仮に、百歩譲って選挙権を行使するのに能力が必要だとしても、その能力の判断に成年後見制度を借用することは間違いである。この点については、いくつもの説得力ある理由がある。
ア 成年後見制度は財産管理に主眼を置いた制度である
現実の成年後見制度の審理においては、家庭裁判所はあくまで財産管理能力を審査しているのであって、選挙権を行使するために必要な判断能力の有無など全く審査していない。
イ そもそも、成年後見制度は、権利擁護のための制度であり、自己決定を尊重する制度である。にもかかわらず、権利を擁護しようとすると選挙権を奪われるということは背理である。
ウ また、成年後見の申立てをした者は、被後見人となることで選挙権を失い、申立てをしなかった同じ程度の能力の者は選挙権を行使しうるの有無により同じ能力の者が、選挙権に差を生じることになり、この不平等は深刻である。さらに、任意後見制度を利用した場合には、被後見人と同程度の能力になり、任意後見がついても、公選法11条1項1号の適用は選挙権は失わないのであって極めて不平等である。
エ 海外の法制度を見た時には、選挙権に能力制限を認める法制度も少ない傾向があるし、また、成年後見制度に選挙権制限を連動させる法制度を違憲とする判決が出ている国もある。現行法のような制度の借用で一律に選挙権を奪うといったやり方は、国際的な趨勢(すうせい)に乗り遅れている。
(3)選挙権を回復することの意義
このように、理屈の上では、この裁判は負けないという自信で臨んだ。また東京地裁で起こした裁判と同様の裁判は、埼玉、京都、札幌でも次々と起こされていった。しかし、原告代理人らは、この裁判を起こしながら、いろいろ学んでいった。原告の父親が訴えた「死んでも死にきれない」ということの本当の意味も、やがて気づくようになった。本件について集会を開くようになり、その中で障がいのある子どもをもったお母さんからの話である。
『うちの子どもは重い障害をもっていて、知的な能力はとても低いです。でも20歳になると投票のはがきが息子にも届きました。私は、「あなたも成人になったのだから選挙へ行きましょう」と話して投票に行くことに決めました。それは、地域の人たちに、こういう子もいるけど有権者なんですよ、と知ってもらいたかったし、成人になった国民としてちゃんとするべきことをしている、ということを示したかったのです。当日、息子を連れて、投票所である小学校へ行きました。会場に一歩入ると、係の方たちが数人駆け寄ってきて、「何かお手伝いしましょうか?」と右往左往されました。私は「大丈夫です」と答えました。受付のところまで息子と一緒に行き、息子は投票はがきを受付で出して投票用紙を受けとりました。ひとりで投票台のところに行き、そして半分に折った投票用紙を投票箱に入れました。彼が何を書いたのかは知りません。でも、私は、少しだけ得意げな息子と一緒に投票所をあとにしました。その後、毎回投票に行く息子を、だれも奇異には扱わなくなっていきました。』
このエピソードが示す選挙権の意義は、障がいをもつ個人が主権者として平等に尊厳ある存在であることを、(本人の意欲や自覚とは関係なく)まさに憲法が個人に保障しているということであって、これにより個人は平等な主権者として胸を張ることのできる象徴的権利としての意味を持つ。また、その人が主権者であることを社会に対しても宣言しているのであり、これによって社会からの平等な尊重を実現することになるのである。いわば、心のバリアフリーを制度のバリアフリーによって確立していくのと同じである。
やっと、「死んでも死にきれない」という後見人の訴えの意味が分かった気がした。
3 学者らの支援
(1)学者らの賛同
この訴訟を起こして、何人もの学者から賛同の声が上げられている。提訴直前に(平成23年2月9日東京新聞朝刊)では「十分な意思形成ができない人を排除する方が、選挙の公正を歪めるのではないか」(戸波江二早稲田大学教授)。また、自己決定の尊重という理念の下につくられた成年後見制度に、禁治産制度のころの選挙権剥奪規定が残ったことについて「立法上の明らかなミス」「高齢社会で制度活用が期待される今こそ、司法は違憲判断をし、政府も法改正に動くべきだ」(高見勝利上智大学教授)とコメントしている。
また、在外日本人の選挙権制限について違憲判断をした最高裁大法廷判決(2005年)において、当時、最高裁判所判事として関わった泉徳治弁護士は同紙上で「選挙権は高い塀で守られなければならない基本的権利、人権と考えられる」と説明をした上で、この基準に照らせば、後見で一律に選挙権を奪うことは許されず、違憲の可能性が強い」と指摘している。そして、戸波教授は「自説を能力不要説に変えます」と言われ、本訴訟に意見書を提出していただいた。さらに、国が自らの根拠として提出してきた文献について、その著者である奥平康弘東大名誉教授もまた、「それは四半世紀も前の理論である」として改説した意見書を裁判所に提出してくださった。
(2)立法府・行政府の動向
ア この問題については、提訴からまもない2011年2月9日の第177国会 衆議院予算委員会で、中根康浩議員(民主党、無所属クラブ)が、「成年後見制度は、権利擁護のための制度であるにもかかわらず、最大の権利である選挙権が被後見人になるとなくなることについて」質問したことに対して片山国務大臣が、下記のように答弁した(以下概略)。http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/001817720110209009.htm
先般、訴訟が提起されたことは重く受け止めている。精神上の障害により事理を弁別する能力を欠く常況、という要件のもとに被後見人になるわけで、事理を弁別する能力を欠く常の状況にあるということですから、通常は政治参画を期待できないということで、公職選挙法の規定も一定の合理性があると私は思います。ただ、同じような状況にある方で、片や成年被後見人を選んだ者とそうでない者がいて同じような状況にあった時に、一方は選挙権を失う、一方は選挙権を保有する、こういうことが憲法に規定する法の下の平等に反するのではないか、こういう論点は恐らくあり得るんだろうと思います。
それからもう一つは、そもそも、この成年後見制度というのは、本人を保護する、特に、経済活動に一定の制約を加えることで本人の権利を保全するという意味があり、その本人を保護することの結果、本来であれば、広く享有されなければいけない政治参画の機会を奪ってしまうということに結果としてなってしまうことに対する違和感というのは、やはりあるんだろうと思います。
いささか個人的な見解も含めて申し上げたが、制度には合理性はあると思うが、訴訟になったので、その成り行きをよく注視していきたい。
イ 同じく、井上哲士議員(共産党)、谷合正明議員(公明党)もまた、提訴の頃に、委員会での質問を行い、大臣からの有益な答弁を引き出した。
(3)国外の趨勢
訴訟の中では、裁判所は外国の動向に大きな注目をしていた。
ア 先進諸国の状況
先進諸国において能力と選挙権の関係についてみると、概略を述べれば、日本以外の主要国においては、成年後見制度の利用が、形式的自動的に選挙権の制約を伴うことになる国は少なくなっており、逆に知的障害や精神障害のある人でも、成年後見の利用の有無にかかわらず選挙権を完全に有しているとする国が増えている。たとえばEU加盟諸国の中では、オーストリア、フィンランド、オランダ、スペイン、スウェーデン、イタリア、イギリスの各国が障害のある人の選挙権に何の制限も加えていないと報告されている。
このような海外の情報については、田山輝明教授(早稲田大学)が、この訴訟をにらんで、独自に海外調査を進め、その最新の情報を著書としてまとめ、提供してくださった。
4 違憲判決 2013年3月14日
以上のように、理屈においても実情においても万全の体制でこの裁判を闘うことができた。唯一の懸念は、裁判官の姿勢であった。国の制度に真摯に向き合ってもらえるだろうか…。しかし、東京地裁民事38部は、第1回の口頭弁論において、裁判長から「この訴訟は選挙権と成年後見制度という重大な問題に関する事件であるから、真剣、迅速に取り組む」旨宣言され、その後8回の法廷は、法廷内で裁判所から国に対する質問が繰り返される「口頭弁論」となった。
傍聴席が固唾(かたず)を飲んでこの訴訟の推移を見守り、当事者、裁判所、傍聴席が一体となってこの裁判を重ねていった。
2013年3月14日、東京地裁は、選挙に能力を必要とすることは認められるが、成年後見制度を借用して、一律に選挙権を制限することになる公職選挙法11条1項1号は違憲であると判断し、訴状で求めたとおり、原告に、国政の選挙権を行使する地位を確認した。そして、裁判長は最後に原告に対して「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張っていい人生を生きてください」と語りかけ、傍聴席から万雷の拍手が起こった。
5 公職選挙法11条1項1号の削除の法改正へ
この違憲判決は、正しい判断である、当然の結果であるとして、社会から歓迎された。各新聞社が一面で報道し、識者からのコメントにも、この結果に疑問を呈するようなものはみあたらなかった。
議会では、各党の議員が各種委員会で、当該法律の削除を訴える一方、与党では法律改正に向けたプロジェクトチームが、まもなく立ち上げられた。当初、能力に応じて行為の許否を考えようとしていた自民党も、学者との勉強会を重ね、一律の制限削除しかないと判断するに至った。
こうして、3月14日の判決から74日目の5月27日に衆参の全会一致で公選法11条1項1号の削除を入れた法案が成立した。5月31日に公布が閣議決定され、6月末日が法律の発効となった。こうして、7月の参議院選挙から全国約13万6000人の被後見人の選挙権が回復された。
6 今後の課題
簡単に触れると、まず、今回選挙権を回復した方たちが、実質的に選挙権を行使できるような仕組みが今後充実される必要がある。次に、成年後見制度は、他の多くの資格制限と連動していることを見直していく必要がある。
(すぎうらひとみ 東京アドヴォカシー法律事務所)