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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

時代を読む46

車いすテニスの普及とジャパンオープン第1回大会(1985年)

車いすテニスとの出合い

筆者が車いすテニスの情報を知る発端は、車いすスポーツの先駆者である北九州の植木政利氏が、1982年12月ホノルル国際マラソンの視察で、当時、ハワイ大学にいた沖縄出身の高嶺豊氏に車いすでテニスができることを聞き、それを伝えてもらったことであった。筆者は当時、マラソンをしており1983年12月には、初めてのフルマラソンであるホノルル国際マラソンに参加した。マラソンを完走した翌日、カピオラニ公園のテニスコートで、高嶺氏の友人のハワイの選手5人と日本人4人(松尾、植木、河本、竹内)で、ツーバウンドルールの車いすテニスの練習と試合を行なった。体格の大きい米国人と競い合えるというのが第一印象で、ツーバウンドルールのテニスの楽しさを知った。

九州での車いすテニスの普及は帰国後である。我々は友人たちに車いすテニスを紹介し、総合せき損センターの体育館に数人が集まって練習が始まった。1984年に開催された第1回車いすテニス競技大会に、筆者は九州から一人で参加した。結果は、シングルス優勝、ダブルスも神奈川の大井選手とペアを組み優勝した。この頃、より早くより正確なテニスを行うための駆動方法を検討していた。また、練習可能なテニスコートやコーチの必要性を感じていた。そんな時、ハワイのジョン・グリーナー氏によるテニス・クリニックを総合せき損センターの体育館で開催することとなった。その後、車いすテニスに興味を持った市内外からの練習参加者が増え、福岡県内だけでなく九州全域に選手が増えていった。

国際車いすテニス大会(ジャパンオープン)への発展

飯塚ロータリークラブや麻生セメント株式会社、西日本新聞社などの協力で、飯塚ローンテニスクラブの高浜コーチの指導を受けるようになった。そして、1984年12月には九州車いすテニスクラブを発足し、ハワイの選手との交流と技術レベル向上のため、ホノルルで開催される国際大会に九州から14人が参加した。試合などで競い合うことは、テニス技術のレベル向上や友人の輪が広がることが分かった。1985年には、前述の協力会社に加え、飯塚市と市民、飯塚ソロプチミスト、そして福岡の7社会などの絶大なる協力を得て、また、飯塚には日本唯一の脊髄脊椎の専門病院である総合せき損センターがあり、脊損者の社会参加を促進することにもなるということで、「飯塚を車いすテニスのメッカにしよう」という合言葉のもと、第1回飯塚国際車いすテニス大会を市内の飯塚ローンテニスクラブと総合せき損センターで開催する運びになったのである。

(松尾清美(まつおきよみ) 佐賀大学大学院医学系研究科医学部附属地域医療科学教育研究センター准教授)