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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

みんな一緒の社会の仲間

南正一郎

僕は、生まれた時からダウン症です。「3歳までしか生きられませんよ」と言われたそうです。でも今、生きています。

5年前に白血病になったけど死にませんでした。抗がん剤ちりょうを何回もしました。この時はさすがに死ぬのかと思いました。病院の先生や友やおおぜいの方のおかげで助かりました。治って家族を安心させたいと思いました。空手も続けたいし、コロッケさんにもまた会いたいと思ってがんばりました。皆にはげまされてこわれた心が強くなりました。心から感謝しています。

18年前の神戸のことを思い出しました。大地しんがきて家などメチャメチャになってるのをテレビのニュースがやっていました。毎日毎日見ました。ボランティアに行くぞと決めました。僕のボランティアに付いてきてと母にたのみました。ね袋とカロリーメイトとさし入れを持ちました。東なだ区の駅で「ここまでです」と放送があったのでおりました。空気がザラザラしてたのでマスクをしました。マンションの1階がつぶれて2階が1階になったのを見た時はドキッとしました。

大学生のボランティアのプレハブに泊まって毎朝、区役所のけい示板で選んで行きました。体育館に行き、皆のかたもみをしたり、道ろのゴミ集めやたきだしなどをしました。校ていにならんでまっていた人たちに豚汁を入れてあげました。おばあさんが「ありがとう」と言って僕のかたをなでで手を合わせて帰って行きました。冬の寒い日でした。かたもみをしている時「はげまされた。がんばります」と言った男性もいました。僕もつらい病気の時にはげまされたなと思い出しました。

皆といっしょに幼稚園、小学校、中学校に行っていろいろおぼえました。幼稚園の先生が「障害児の教育はいっぱんの子どもの教育の原点です」とおっしゃいました。小学校に入る前に手術を4か所しました。入学きょかがやっと来ました。

生徒も先生も良い手本と悪い手本がいました。中学でいつもつきとばすやつがいたけれど、前からの友達が「ミナミー」と大きな声でよんでくれた時からいじめられなくなりました。皆と一緒にいろいろな行事にさんかしたのが楽しかったです。授業をまじめに聞いていて良くわかった時はすごくうれしかったです。

特別支援学校高等部に入りました。気のあう友達が7人できました。時々集まって飲んだり旅行したりします。その中のひとりは親友です。男らしく明るくて気は優しく力持ちという感じです。でも体をこわしてからはあまり動けなく、話をするのがゆっくりになりました。原宿の施設でくらすようになったのでいつも面会に行きます。大切な友です。

就職のための実習に行きました。おぼえがおそいとかまちがえた時は、すぐなぐったりけったりします。ことばで言わずにらんぼうなのでやめました。

卒業後、父の経営している新聞販売店に就職しました。きかいで折り込みをまとめるしごとを教えてもらいました。夜は朝刊に行く人の手伝いやあとかたづけ、店のそうじをしました。セールスけいやくもおぼえました。仕事を教えてくれる先ぱいもいたけれど、中には親切にしてくれるふりをしてたかられたことが良くあります。お金を何度もとられました。僕もすぐに家族に話をしなかったので、しょっちゅうだまされました。これからは何でも家族に話をしようと思います。しっかりしなければダメだと反せいしました。

これから先のことをどうするか、自分なりに考えました。ダウン症のこうはいたちがたくさんいます。僕はこれからも自分をきたえ直します。良き先ぱいとなれるようにもっとしっかりしようと思います。

ダウン症があったとしても良いことがいっぱいあるよ。何でもできるよ、だからあきらめないで、ゆっくりでもかまわないよ、少しずつできることをふやしていこうね。僕はこれからもいろいろな所に講演に行って、ダウン症を理解していただきたいと思います。

皆さん、ダウン症のことをいろいろ知っておぼえてください。みんな一緒の社会の仲間と思ってください。どうぞよろしく。

僕の楽しみは絵と絵手紙、俳句と詩と読書、お笑い番組、リコーダーと一五一会ギターです。一番は空手です。

これからもがんばるぞ。


プロフィール(みなみしょういちろう)

1972年生まれ。小・中学校は普通学級、高等部は養護学校に通う。卒業後は新聞販売店で新聞のセールスや折り込み、掃除、契約取りなどをして働いた。

平成20年に白血病が発病したが、治療に成功、通院しながらも今は元気に! 昨年、14歳から始めた空手で黒帯を取得した。ものまねで、コロッケと志村けんに惚れ込んでいる。