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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

絵が世界をほどいてくれた

実月

「それぞれが自由に描き、身をもった自己表現の体験を通して、もう一人の自分と出会い、潜在する個性や可能性を引き出し、自らを“癒し”支えていく営みの場」という安彦講平先生の主宰する〈造形教室〉に通うようになって約7年。

〈造形教室〉に出合うまでの、出合ってからまだ少ししか経っていなかった頃の私は、病院と障害者施設に行く以外に、何の繋(つな)がりもなく、優しくしてくれる人がいたとしてもギリギリの心境で、母と2人暮らしのアパートに帰ると激しく衝突してばかりだった。

その頃の母は、誰かと私を比較し、批判したり指摘することが、娘を思う優しさだと信じている人だったように思う。私が大人になり、母は自分の育て方が悪かったと謝ってくれたものの、謝ってあげたのにあなたは変わらないじゃない、と毎日私ができないことをできる人と比較しては言われた。

当時は自分自身でも、何かができなければ生きる価値はないと思い込んでいた。でも、〈造形教室〉で一個の人間として、自分の描いている世界を受け入れてもらえた時、自分の心の中の外側にあったプライドが、内側の自分を否定しなくてもいいと思えるようになった気がした。

〈造形教室〉に通うようになって1年くらい経った頃、躁(そう)状態が続いていた私は、やがてズドンと鬱(うつ)になり、ついにはかなり混乱した状態になって措置入院となってしまった。今から思うと、自分のできないことを見せつけられることで傷ついていた私は、病んでいることを見せつけることで親にメッセージを送っていたのかもしれない。そしてこの入院をきっかけに、母は本当に気づこうとし、私をかばおうと頑張りだすようになった。

退院後、グループホームに入ってから、私は母に対する怒りを言語化し始めた。母はそんな私の話を聞き、その言葉を受け入れてくれるようになっていった。そして毎日のように、〈造形教室〉でその日にあった、苦しかったことや嬉(うれ)しかったこと、難しかったことや思いやってもらい気づかされたことなどを話すと、母はそのすべてを受け止めてくれた。

謝ったことで娘を変えさせようと迫るのでもなく、本で覚えたポジティブな表現の言葉を使って優しい感じに接するのでもなく、価値観や考え方の根っこの部分を変え、私に向き合ってくれるようになった。そして、この後何年間も時間をかけながら、親としての被害者意識を過去に捨てていくことで、娘の苦しみを受け入れ、共に成長に向けて歩んでいきたいと思ってくれている。

〈造形教室〉に通い、自分の心の中にある怒りや不安や苦しみを心にしまうのではなく、むしろ気のすむまで吐き出すことを作品と会話で許され、空っぽになった心に、スタッフやメンバーの皆さんの優しさや思いやりが入ってきた。根っこの部分から吐き出し、受け止めていただくことで、親子そろって考え方を変える方向へと歩むことになり、私は落ち着き始めた。

措置入院を体験するほどに激しい感情や、どうしようもない自分を、誰も見捨てることなく、私を信じ、幸せを願ってくれる人たちのおかげで、幸せに包まれている今の私がいる。母と娘の2人だけの孤立し閉じられた関係が、〈造形教室〉のスタッフやメンバーの皆さんとの繋がりができたことで、ほどけていったように思う。

一人では何もできない私だけれど、ここまで歩んでくることができた。その時その時に繋がってくれる人との関係があれば、人間の心は変化していけるのだと思う。繋がってくれる関係と時間の流れの中に身を置くことで、見える世界も感じる世界も変化し、可能性は拓(ひら)かれていくのだと思う。

与えられた優しさに応えたい気持ちはあるが、今の私には自分のことを支えるのが精一杯で、何の恩返しもできていない。また入院が必要な状態になるかもしれないという不安も抱えているが、これからも〈造形教室〉に通い、絵を描き続け、そこで出会う人との繋がりを大切にしていきたい。


プロフィール(みづき)

都内の精神科病院で活動する安彦講平氏(造形作家)の〈造形教室〉に通い、絵画を通じた自己表現を心の支えに、日々創作に励んでいる。鉛筆やペンを用いて、画面全体を繊細でやわらかに包むような、独特の線描画を数多く制作している。なお、〈造形教室〉を主宰する安彦氏は、1968年より精神科病院を舞台にして「心病む人たちが主体となって自らを“癒し”、自らを支えるための自己表現の場」を営んでいる。