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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

文学やアートにおける日本の文化史

八幡学園における芸術教育の歴史
~知的障害児の発達を育む絵画と造形作品~

高野聡子

八幡学園は昭和3(1928)年、千葉県東葛飾郡八幡町(現在の市川市)に設立された知的障害児のための入所施設(当時の言葉では精神薄弱児施設)である。八幡学園のその名は障害児教育や障害者福祉の分野のみならず、一般にも広く知られている。その一因には、山下清(1923-1971)をはじめとする八幡学園の入所児による絵画や貼り絵、そして造形作品によるところが大きい。とくに山下清をモデルにした映画やドラマ放映は人々の興味関心を喚起し、人々は山下清だけでなく八幡学園の入所児である知的障害児が創り出す芸術作品に魅了されてきたのである。

では、なぜ八幡学園では人々を魅了するような芸術作品が生まれたのであろうか。ここでは八幡学園の初代園長が掲げた標語や学園で取り組まれた芸術教育の内容、そして現在の学園での芸術活動からその答えをひも解き、日本の文化史における知的障害児アートの一端を見てみたい。

1 厳しい条件下での八幡学園設立と学園標語~「踏むな 育てよ 水そそげ」~

八幡学園の設立者で初代園長は、久保寺保久(やすひさ)(1891-1942)である。久保寺は学園の設立から逝去するまで、自身の人生を学園に捧げたといっても過言ではない。だが、彼は当初から知的障害児の教育や福祉に従事したわけではなく、不良少年に対する教育、いわゆる感化教育への従事を出発点とした。彼が最初に従事したのは、1923(大正12)年に京都帝国大学を卒業後に教諭として勤めた不良少年のための感化教育施設、大阪府立修徳館(現在の大阪府立修徳学院)であった。

しかし、久保寺は1923(大正12)年の関東大震災の発生によって実家がある東京に戻らざるをえず、着任からおよそ半年で教諭を辞することになる。その後、東京の実家が落ち着くと、彼は知的障害児施設、八幡学園の設立に奔放する。なにが彼を知的障害児施設の設立に駆り立てたのだろうか。それは感化教育施設、修徳館での少年らとの出会いであった。彼は修徳館で処遇されている不良少年の中に知的障害児が存在していることを経験し、彼らと接する中で、知的障害児に対する適切な教育と保護の必要性を感じたのであった。

ところで、八幡学園が設立された昭和初期の知的障害児の教育や福祉(当時の言葉では社会事業)は、現在とは異なる様相を呈していた。

現在、知的障害児の教育は特別支援教育制度、福祉は児童福祉法あるいは障害者総合支援法といった法制度によって整備されている。だが、八幡学園が設立された昭和初期は、知的障害児に対する学校教育も(補助学級や特別学級が通常の学校に設けられていた地域もあったが)、福祉(社会事業)も未整備であった。いわば、八幡学園だけでなく当時の知的障害児施設そのものが、園長らの問題や課題意識によって設立され、施設の財政や運営、さらには知的障害児の教育と保護の方法も園長らに委ねられていた。そのような個人的努力が強いられる厳しい条件の中で、久保寺は「踏むな 育てよ 水そそげ」という学園標語を掲げ、八幡学園を設立したのであった。

2 子ども一人ひとりの発達を目的とした芸術教育

八幡学園の入所児の障害の程度は軽度から重度までと多様であったが、入所経緯もまた多岐に渡っていた。家庭での養育困難、虐待を受けた子、孤児など、学園には多様なニーズと個性を持った知的障害児が暮らしていた。

芸術教育は日中に行われたが、日中の中心的活動は「実科」と呼ばれ、その内容は農園芸、ミシン、裁縫、動物の飼育、細工(木細工、竹細工、紙細工、布細工、粘土細工、紐細工など)、絵画、貼り絵など多岐に渡り、八幡学園では芸術教育のみが行われていたわけではなかった。また、これらの「実科」と呼ばれた活動はやみくもに行われたのではなく、久保寺には系統立てた指導方針があった。

その指導方針は、順をおって3段階に並べられ、1.「生活訓練」→2.「情意訓練」→3.「職業教育」とされていた。学園の入所児は規律や清潔さを身に付ける1.「生活訓練」を経て、情操を育むための2.「情意訓練」を行い、最後に3.「職業教育」を行うといった系統立てた指導方針による教育を受けていたのである。

芸術教育はその指導方針の2.「情意訓練」の段階に位置づけられ、八幡学園における芸術教育の目的は入所児の情操を育むことであり、なおかつ芸術教育は職業教育の基礎を培うものであった。そして、貼り絵を行う目的からも教育的意図が芸術教育にあったことが分かる。貼り絵は細かく根気のいる作業であるが、学園では貼り絵を行うにあたって、途中であきらめることが無いように達成できる作業にすることや、疲れないようにすることなど注意が払われ、子ども一人ひとりが自由に表現し、芸術的感性が育まれた。

以上のように芸術教育は、文字通り、学園標語の「踏むな 育てよ 水そそげ」が示すように、知的障害児の一人ひとりの発達を促すために行われていたのである。だが、一方で学園には芸術教育が行うことができるだけの条件が揃っていたことも事実である。まず、学園は1937(昭和12)年に施設内に「児童手工芸作業室」を設け、芸術教育のための環境を整えていた。そして久保寺の親族に芸術家がいたことである。たとえば、久保寺の実弟の久保寺辰夫(東京美術学校卒業、学園の嘱託職員を勤めたことも)、三男で彫刻家の堀川恭があげられる(東京芸術大学卒業、学園での造形指導を行なった)。

ところで、なぜ八幡学園の入所児が創った絵画や貼り絵、造形作品が広く一般に知られるようになったのだろうか。それは昭和13(1938)年11月に、早稲田大学大隈講堂で開催された「特異児童作品展」を端緒とした入所児の作品による絵画作品展や作品集『特異児童作品集』の刊行(作品展等の開催には、早稲田大学教授で心理学者の戸川行男(1903-1992)の存在があった)や、学園の嘱託医で精神科医の式場隆三郎(1898-1965)による山下清を中心とした入所児の芸術作品の紹介があったからであった。

一方、絵画作品展とあわせて久保寺による講演も開催された。久保寺は一般の聴衆だけでなく、知的障害がある子どもの母親に対して知的障害児の発達と教育の可能性を説明した。だが、久保寺は昭和17(1942)年52歳という若さで逝去する。その後すぐに久保寺保久の長男、光久(1920-2012)が学園二代目園長となり、戦争末期から戦後の社会福祉制度の時代の波の中で、八幡学園において知的障害児の療育と暮らしを芸術教育を継続しながら支えていくことになる。

3 伝統を受け継ぐ現在の芸術活動~「造形教室」と「創作工房」~

現在の八幡学園(社会福祉法人春濤会)は、平成19(2007)年に全面改築された福祉型障害児入所施設「八幡学園」、「こども発達支援センターやわた」(児童発達支援センター)、「ひまわり」(放課後等デイサービス事業)を通して知的障害児の療育や暮らしの支援を行なっている。もちろん芸術教育も受け継がれており、療育や余暇活動の一つとして美術大学を卒業したプロの画家を非常勤講師として雇い活動している。

とくに「八幡学園」では、「造形教室」という名称を用いて週3回、放課後の時間を中心に1回につき3~4人の学齢期の入所児が芸術活動を行なっている。また、「ひまわり」では「創作工房」という名称で、土曜日に在宅の知的障害児が活動しており、遠方から通う在宅児もいる。

今回の原稿を書くにあたって、現在の久保寺玲(あきら)園長(三代目園長で、初代園長保久の孫)に八幡学園で芸術教育を続ける理由を聞いてみた。玲園長は、「学園の創設以来続いている伝統を守ることはもちろんのこと、絵を描くこと、そして芸術作品を創ることは、知的障害児にとって自由な発想を表現するために大切である」と話してくださった。確かに「造形教室」はすべての入所児に強制した活動ではなく、「造形教室」の活動をやりたいという入所児が対象となっている。保久初代園長と光久二代目園長が共に大切にしてきた、子ども一人ひとりの個性や発達の可能性が今なお尊重されているのである。

なお、現在でも「造形教室」で創った絵画や作品は地域の絵画作品展などに出展されており、それとは別に『「八幡学園」山下清展事業委員会』(代表は松岡一衛氏)によって、山下清と同時期に入所していた知的障害児らの作品を集めた『山下清とその仲間たち』も開催されており、現在のみならず八幡学園における芸術教育の歴史の一端を知ることもできる。

(たかのさとこ 聖徳大学専任講師)