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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年8月号

証言3.11その時から私は

東日本大震災から2年あまりが過ぎて

熊谷賢一

私は、先天性緑内症である。小学校から宮城県立視覚支援学校で学び、卒業後数年、他県で働き、28歳のときに地元の岩手県陸前高田市に帰り、鍼灸按摩業を自営してきた。

5年ほど前から、徐々に光が見えなくなってきていたが、治療院と自宅を中心に公共交通機関を使っておおむね自由に生活をしていた。また、ここ数年は、震度5前後の揺れがあったりしていたので、大規模な地震がくるのかもしれないと思いつつ、特段、防災用品なども買わないで日々を送っていた。

3月9日も津波注意報が出るような地震があったが、気に留めず、約10日後に迫っていたSTT(サウンドテーブルテニス)の講習会の準備を進めていた。

11日も、STTの用具などを借りに大船渡市に行こうか迷っていたときにあの地震がきた。震度5弱の揺れがきては弱まり、弱まっては強くなるというような全く経験したことのない地震がきた。

本能というか、直感というか、このまま地震だけで終わらないと感じ、津波の第一波予測が3メートルという防災放送等も聞いて、高台に避難しなくてはと思っていたが動けずにいた。幸い、隣の県立高田病院の官舎に住んでいらした石木(いしき)先生の奥様と、いつも酒と煙草を買っていた店の奥さんに助けられた。

それは、石木先生の奥様が酒店の奥さんにあの地震の中、電話で私を治療院から歩いて10分弱の自宅に連れて行ってほしいと連絡をしたそうである。

お二人の連携で私は助けられたが、お二人は帰らぬ人となってしまい、お二人を強く説得して高台に一緒に逃げることができなかったことが心に蟠(わだかま )っている。

高台にある第1中学校に無事母と二人で避難でき、母が晴眼者であるためと、1週間ほどで視聴覚室に障がい者の方、高齢で病気がちの方々を集めていただき、集中して支援していただいたおかげで、狭い所にそれなりの人が住むというプライバシーの確保が乏しいということ以外、あまり不便を感じないで、仮設に入るまでの3か月を過ごすことができた。

仮設に移っても、第1中学校という最盛時1,200人あまりの避難者が住んでいた所でもあり、目立つ所であったためか、移動販売車や温かい支援品等が流通し、特別不便を感じたことはない。

もちろんそれは市役所の方々をはじめ、自衛隊の方、県外からのボランティアの方々等、多くの方々が分からない所で震災前にも増して働いていただいたおかげであると感謝している。

幸運に導かれて、高台に1年あまりで自宅を再建して、避難所に支援に来ていた方の紹介で市内のデイサービスをしている事業所に雇っていただき、半日働かせていただいている。

まさに、罰あたりではあるが、幸運が重なりでここまできたのですが、ほとんどの方々はこの逆のような、大変厳しい中を生き抜いてきていらっしゃるわけです。

これからは、第1避難所・第2避難所の設定を厳格に定めていただき、完璧ではないにしても避難誘導の仕組みを作り、専門の福祉避難所を数か所設置するなどしていかなくてはならないし、職業の自由に反するかもしれないが、もっと福祉関係に勤める方を増やし、仮設に住んでいるかいないかを問わず、支援できる環境をつくってもいかなくてはならないと思う。

特に視覚障がい者について書くと、福祉避難所としては、大船渡市ではあるが「祥風苑(しょうふうえん)」という視覚障がい者のための老人ホームがある。ここを福祉避難所として指定していただければ、職員の方も日常的に視覚障がい者と接しているので、良い環境で過ごしていけるのではないかと考えている。

福祉避難所を出られた方々には、生活を支えていただくヘルパーさんが必要なので、社会福祉協議会だけでなく、他のNPO法人など多様な事業所に参入していただき、日常の生活支援(買い物・掃除・散歩など)を、それとは別に同行援護事業として、余暇活動に対しては長時間サポートしていただける状況を作る必要がある。

また、公的・私的を問わず、紙に書かれた文章を処理することが私たち視覚障がい者は苦手なので、このことに特化したサービスを提供していただければ大変心強い。音の出る信号機も津波で流されたので、聞き取り調査を十分にして、より生活に密着した場所に設置していくことをはじめ、インフラの再整備も進めていかなくてはならない。

陸前高田市高田町のほとんどが更地になり、これから10年単位でゆっくりと復興が進んでいくのだが、これからは絶対的に高齢者や障がい者が多くなるので、公共交通機関の充実・福祉に関わる人材の充実を基本にして微力ながら、できることをあきらめずに行なって故郷で生きていきたいと思う。

結果的に、命をかけて命を救われた者として、返せないものを返すために。

(くまがいけんいち 陸前高田市在住)