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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2013年10月号

時代を読む48

福祉のまちづくり半世紀(1) まちづくり前史

1974年春、脳性まひ者のケア付き住宅建設運動(川口)に参加することになった。その過程で仙台市の福祉のまちづくりの動きを知った。仙台では前年の9月、車いす市民交流集会が開かれたばかり。その夏、仙台市内で1週間をかけ改造されたという施設や道路、公園の実測調査した(写真)。同じ1974年の夏、川口のリーダーから「さよならCP」(1972年)の上映会に誘われた。川口で脳性まひ者に出会い、社会的立場やまち、住まいの現実を少しは知っていたつもりではあったが、ショックを受け、帰りの電車内ではリーダーとほとんど会話ができなかったことを昨日のように覚えている。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真はウェブには掲載しておりません。

振り返ってみると、地域生活や環境改善にも、「青い芝の会」の活動が大きく影響している。1968年夏には都営住宅の住宅問題で都議会に請願、建設戸数の一定の割合を身障者用に割り当てること、玄関スロープの設置や住宅改造を行うこと、1階での居住に変えること、交通が便利な住宅を確保すること、身障者だけの特別な障害者用住宅に反対を打ち出し、採択されている。コロニー政策の真っただ中で今日の政策を予見する画期的な提言を行なっていた。川口のケア付き住宅運動もこうした動きが全国の脳性まひ者に知られていく中での活動であった。住まいが確立すれば道路や交通手段、まちの改善につながる。

前後して、1969年末から先の仙台では車いす使用者やボランティアによる「生活圏拡張運動」が始まる。この動きにRIによる国際シンボルマークの制定が拍車をかける。

車いす市民交流集会は、「弱いものを切り捨て隔離する社会は、実は障害者だけでの問題ではなくすべての市民の生存権に関係する」(報告書)ことから始まった。29人の車いす市民が「車いす体験旅行と交流集会」と称し、不安を決断に変え、特急列車や新幹線を乗り継ぎ、仙台に集まった。バリアフリー・ツアーの先駆けである。この交流が各地で同時代的に発生していた「福祉のまちづくり」運動に勇気を与え一気に開花する。心身障害者対策基本法(1970年)や大阪万博(1970)も背景にあるが、1966年のコロニー計画(厚生省)の発表が「街に生きる」障害者自身のまちづくり行動を決定づけたともいえる。設備は全くなくても、町に出かけ、民宿に泊まり、みんなで移動してきたボランティアの歴史も記憶しておきたい。

(髙橋儀平(たかはしぎへい) 東洋大学ライフデザイン学部教授)