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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年5月号

文学やアートにおける日本の文化史

鬼・障害者・江戸川柳(前編)

花田春兆

春酣山を自在に句の鬼よ

説明や質疑応答を聞く耳も、詳しい資料もよく見えない視力、呆然となりがちの意識…。

出ても仕方ない編集会議だが、無理押しした2月号(特集「高齢障害者問題」)への反響が気になっているし、外気に触れたさもあって出て来たのだが、いきなり驚かされた。

いきなりのご対面。

2月号で追われた鬼たちが、廊下(日本障害者リハビリテーション協会が入っている戸山サンライズの)のギャラリーの中央、「ノーマ」の紹介掲示板や、会議室の真向かいに陣取っているのだから、なんとも楽しくなる。

会議内容は、やはり議事録待ちの状態の今だが、このご対面だけで嬉しくて、近寄ってさらにビックリ。

東北の岩山の頂上まで鬼(なまはげ)を追ったのは、東北宮城のカメラマン佐藤孝之(こうし)さん(78歳)(戸山サンライズ主催の25年度障害者による書道・写真全国コンテストの写真部門で銀賞入賞)。生涯と専門こそ異なれ、宿命とも呼べそうなものを背負って、長寿の一生を貫いて賀を迎えた…。

そんな私とも呼び合っていただけそうな作家、との勝手な思い込みから、このご対面だけでも、出てきたかいはあったと酔い心地になりかけていた。

いきなりの出合い頭、しかも思っていたものが向こうから現れた嬉しさに単独先行させてしまったが、お題頂戴の三題噺ではないが、障害者・江戸川柳のペアあってこその、鬼だったのだ。

ちょうど、眼に止まった川柳解説書『江戸のまんが』(講談社学術文庫、2003年)に、度肝を抜かれて魅せられていたときだった。

そこには躍動する鬼たちがいた。日本での彼らのそもそもの出生から生い立ちを、明らかに示しているのだ。

その原典?にしているのが、平安末期の『餓鬼草紙』だが、鬼は鬼でもこの鬼、人間にへばりついている臆病もの。天の邪鬼もご同様かな??

もっとも、もう少し鬼らしい鬼も、他の絵巻物や説話集などに、出没しているのが散見できるようだが、いずれにせよ、同じ空の下に、隣り合って暮らしている仲間たち同士、とでも言いたいような気がしてくる。

それを明確に示した一言を『まんが』で見た気がする。

―怪物という化け物と、人間の間に居るのが、鬼という存在―

というのだ。そんな近さだからこそ、鬼となってそちらへ移る人も出るのだ。

生きながらでも、○○の鬼と呼ばれる存在も、現に関さん(本年2月号の文化史の執筆者関義男さん)も、文献の鬼ではないか。

駆けたくて天山の春想い居り

かつて敦煌または手前の安西から北上し、ウルムチを通り天山山脈の北麓を経て中東まで辿られた天山北路(てんざんほくろ)を長安まで、句と写真で私も辿りたくなった。仰臥生活でも、これなら出来そう。

選(よ)りによって、

弁天を除けばかたわばかりなり

を招びだしてしまったのが、決定的間違いのもとだった。

かたわ(障害者)が、表に、正面に掲げられているくらいだから、川柳は、障害者の影がふんだんに踊っている世界、と想いこんでしまった。

だが、『まんが』は画の方の研究所だし、私は予備知識も薄ければ、文献も手元に無い。早飲み込みだったかどうか。ご指摘いただけるような、川柳関係者が居られれば、幸せこの上無し、なのだが…。

それは、そうとして、差別語、差別語と、目くじらを立てないでほしい。

こちらからすれば、特別支援・要介護者・要援護者と騒がれる、現在の方が、被害意識を強めがちなのだ。

その当面する差別語論議は、常用漢字制定時以後のもので、その時の文献が書架に紛れ込んでいる。学究的で難しそうでも読みたいが、時間も体力も許しそうもなくて、頭上に仰ぐばかり。

ともあれ今、差別語とされているものを日常的に使って、区別は区別として認め合いながら、みんなで共に生きる、共生社会を実践しているのは、江戸町民の方ではないのか。次号もよろしく。

(はなだしゅんちょう 俳人、本誌編集委員)