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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年6月号

時代を読む56

社会保障裁判の先駆としての朝日訴訟
―朝日茂さん没後50年目に

生活扶助が昨年から3年かけて最大1割切り下げられる。また昨年末、親族扶養の強化が折り込まれた生活保護法改正法が成立した。こうした状況は、朝日訴訟の提訴前夜に酷似している。

朝日訴訟は、生活保護の第一次「適正化」政策(1954~1956年)に対する抵抗として提訴された。原告の朝日茂さんは過労から結核を発病し、岡山の療養所に入院して生活保護を受給していた。1954年度予算は再軍備政策のため社会保障が大幅に切り下げられ、保護「適正化」の名の下に、物価上昇にもかかわらず生活扶助(長期入院患者には「日用品費」月額600円)は据え置かれたままであった。朝日さんは当時の様子を「病める身を 養うに足らぬ 給食にて 今日も死にたり 一人の療友(とも)は」と詠んでいる。

さらに保護「適正化」は、親族扶養を強化する方針の下、音信不通になっていた朝日さんの兄を見つけ出し、仕送りを強要した。兄は満州から引き揚げ、妻子4人を抱え苦しい生活を送っていたが、弟のために月額1500円を送金することになった。

朝日さんが深い憤りを感じたのは、福祉事務所長が仕送りを全額収入として認定し、日用品費の支給を停止し、残額900円を医療費の一部負担金として国庫に収納したことである。つまり兄の送金は活かされず、相変わらず月額600円の生活が続いたのである。当時の日用品は、肌着は2年に1着、パンツは年1枚などの水準であった。

朝日さんは不服申立てを行なったが却下され、日本患者同盟の支援を受けて、1957年東京地裁に、このような低劣な生活保護基準は、憲法25条に定める国民の生存権を保障すべき国の社会保障義務違反であると提訴した。

訴訟は東京地裁で勝訴し(1960年)、翌年の保護基準改定では18%(争点の日用品費は47%)アップという結果となった。その後、東京高裁では逆転敗訴(1963年)。朝日さんは上告後、1964年に逝去。最高裁では養子の承継を認められず敗訴(1967年)という経過をたどった。

注目されるのは東京地裁判決である。その要旨は、憲法25条に規定される生存権的基本権は「国家の積極的な関与」によって国民の「人間に値する生存」を保障することに主旨があると述べ、最低生活の水準について「『健康で文化的な』とは決してたんなる修飾ではなく、その概念にふさわしい内実を有するものでなければならない」とし、それを保障する財政に関しても、「予算の有無によって決定されるものではなく、むしろこれを指導支配すべきものである」と政治のあり方について明快に示している。現在の保護行政の混迷を糺(きゅう)す判決ともいえるであろう。

(鈴木勉(すずきつとむ) 佛教大学社会福祉学部教授)