音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年6月号

ワールドナウ

開発途上国におけるろう教育の状況
―アジアの小国で、ろう学校消滅の危機

森壮也

障害者の権利条約では、教育について、第24条で特に教育の権利の保障をうたい、第2項では次のように述べている。

(a) 障害者が障害に基づいて一般的な教育制度から排除されないこと及び障害のある児童が障害に基づいて無償のかつ義務的な初等教育から又は中等教育から排除されないこと。

(b) 障害者が、他の者との平等を基礎として、自己の生活する地域社会において、障害者を包容し、質が高く、かつ、無償の初等教育を享受することができること及び中等教育を享受することができること。

(中略)

(d) 障害者が、その効果的な教育を容易にするために必要な支援を一般的な教育制度の下で受けること。」(以上、日本語条文は、日本政府訳、以下同じ)

つまり、この第2項では、いわゆるインクルーシブ教育の原則について述べている。しかし、同時に、この後の第3項において、点字や手話について言及しており、(c)で「その個人にとって最も適当な言語並びに意思疎通の形態及び手段で、かつ、学問的及び社会的な発達を最大にする環境において行われることを確保すること。」とも規定している。

同項目は、インクルーシブ教育の原則を宣言した1994年のサラマンカ宣言で「聾者および盲聾者は特有のコミュニケーションニーズがあるため、彼らの教育は特殊学校もしくはメインストリーム校内の特殊学校やユニットでより適切に提供されるかもしれない。」(国立特別支援教育総合研究所訳)とろう学校の存在意義を認めたことを踏まえてのものである。

しかし、世界に目を向けてみると、いくつかの国々では、ろう教育は危機に瀕している。欧州でもすでにイタリアやノルウェーなどでは、すべての学校がインクルーシブ教育の下に入り、ろう学校が消滅している。ろう学校で聞こえる子どもたちの受け入れも始まっており、ろう児を集めてのいわゆる特別支援教育という場がなくなってきているのである。

このことの是非を問う前に、先進国だけでなく、アジアの国々の中でも似たような状況が現在、起きていることを伝えておきたい。

まずはシンガポールの事例である。2011年にシンガポールろう者協会(SaDeaf)が、教育省と全国社会サービス評議会(NCSS)からの命令であるとして、同協会が運営するシンガポールろう学校(Singapore School for the Deaf、SSD)の2016年頃の閉鎖と、2010年以後の新規生徒募集の停止を発表している。

シンガポールには、小学校レベルのろう学校は、手話での教育も行なっているSSDと、口話法と、手話は補助的にのみ用いるいわゆるトータル・コミュニケーションとを行なっているカトリック系のカノッサ会(ろう)学校の2校しかない。いわば、障害者の権利条約でも認められているはずの手話をメインに用いる唯一のろう学校が、シンガポールでは消滅の危機にある。

1963年創立のSSDは、結局、来年2015年に閉鎖されることになり、生徒たちは盲学生と共に別の高機能自閉症児のために設けられていた特別学校(Pathlight School)に移されることとなっている(当初は、Lighthouse Schoolという盲学校にろう生徒が移される予定で生徒の受け入れも一部進められていたが、変更された)。いわば、Pathlight Schoolの総合特別支援学校化が起きている。また、盲学校は同国でも存続することになっているため、閉鎖されるのは、ろう学校のみであり、盲人とろう者では、置かれた状況が異なる結果になりつつある。

その背景には(Tan, 2011a, 2011b)、1990年代以降の障害の早期発見(2001年に保健省による聴力障害スクリーニングがスタート)と医学の発展、補聴器と人工内耳(2001年から保健省が最低1台3万ドルする同機器の購入補助を始めた)といった機器の技術的発展、そして、インクルーシブ教育の進展がある。

SSDは、1980年代の最盛期には300人近くの生徒がいたこともあったが、閉鎖が決定した2011年には、生徒数はわずか16人に激減していた。いわば、この16人が最後の卒業生ということになる。

一方、シンガポールろう者協会のリーダーLily Gohによれば、同協会には現在、5,600人の会員がいるものの、登録手話通訳数はわずか6人のみという(Goh, 2014)。シンガポールでは、ろう者の教育手段として効果的な手話、そして手話を用いるろう者の文化の母胎となったろう学校が共に危機に瀕している。

次はアジアのもうひとつの小国、香港の事例である。

香港のろう教育の歴史は、1935年に遡るが、同年に設立されたのが香港ろう学校である。第二次大戦後にもいくつかのろう学校が同地に設立され、合計9つのろう学校が香港に存在した。

1968年には、生徒数は、その当時の8つのろう学校(カノッサろう学校が1973年に設立されているため、前記の数字より1校少ない)で合計600人にまで達した。9つのろう学校のうち、華僑聾啞學校(OCSD)、香港聾啞協會學校、曉莊聾啞學校、啟喑聾啞學校、路德會聾學校(手話を主に用いていたのは、前2校)が手話を用いていたろう学校として記録が残っている。

1950年代末から1960年代はじめにかけて、香港政庁社会福利署は、手話教育に対して肯定的な対応をとっていたと言われている。1960年代はじめにろう教育担当部署が、社会福利署から教育局に移り、1962年に米国ギャローデット大学のオージオロジー専門家を招聘したことにより、香港政庁はろう教育に早期介入と口話教育を導入し、政府補助による無償ろう教育を実施する方向に政策を大きく変えた。これによって、手話を使用するろう学校が徐々に閉校を余儀なくされ、1976年にはわずか4校となっている。

地域校での特別支援学級も1969年に設立され、1977年には香港のろう教育は、統合教育を主とするに至った。1994年には人工内耳手術例も登場している。こうした中で、2008年にはろう学校はわずか2校となり、1980年代には生徒数は全部で700人近くいたのが、2008年には176人に減少している。手話を主に用いるろう学校は、こうして香港でも壊滅的な状況に近づいている。

また新しい実験として、九龍灣聖若翰天主教小學という香港競馬会などの支援を受けた聴児のいる学校で、2014年度までの7年間、手話も導入してバイリンガル教育を行うという実験が行われている。成果は挙げているものの支援の継続の可否で、現在、大きな瀬戸際に立たされている。また、香港の手話通訳者も同国のろう者協会事務局長のAdam Ng Yingyungによれば、ろう者人口10万人に対しわずか10人(Ngo, 2013)である。手話コミュニティを支えるインフラである手話通訳の不足という問題も、同時にこれらの小国では共通してみられる。

以上、アジアの小国二国の事例から、世界的なインクルーシブ教育の流れの中で、例外として残されていたはずのろう学校が、いずれも危機に瀕しているという状況を紹介した。

これらの事例から学べるのは、小国においては、他の国々以上に主流政策のインパクトが大きく、ろうの子どもたちへの選択肢が狭まっていく危険性があること、それは障害者の権利条約の主旨には反するものであること、他の国々でもろう教育の位置づけ、手話の維持やその意義の再発見に努める努力をしていかなければならないのではないか、ということである。

日本でもインクルーシブ教育のうねりによって、すでに、ろう学校の児童の激減やろう学校の特別支援学校化は始まっている。こうした状況が果たして、今後のあり方として良いものか、改めての議論が必要だと思われる。

(もりそうや JETROアジア経済研究所主任調査研究員)


【参考文献】

・Daniel, L. M. and S. B. Lim (2012), The Hearing Screening Programme for Infants in KK Women’s and Children’s Hospital ― Its Development and Role in Reducing the Burden of Hearing Impairment in Singapore, Proceedings of Singapore Healthcare Volume 21 Number 1 2012, pp.40-47.(http://www.singhealthacademy.edu.sg/Documents/Publications/Vol21No12012/Mary%20Daniel.pdf)

・Goh, Lily (2014), “Is Singapore ready to support deaf students?”, Salt March 27, 2014 (http://www.salt.org.sg/is-singapore-ready-to-support-deaf-students/)

・Ngo, J. (2013),”Hong Kong's 100,000 deaf people rely on just 10 hand-sign translators”, South China Morning Post October 7, 2013 (http://www.scmp.com/news/hong-kong/article/1325819/hong-kongs-100000-deaf-people-rely-just-10-hand-sign-translators)

・Ngo, J., (2014)“Threat to school's 7-year programme integrating deaf children as funding runs out”,South China Morning Post, March 05, 2014.(http://www.scmp.com/news/hong-kong/article/1440823/threat-schools-7-year-programme-integrating-deaf-children-funding)

・施婉萍、路駿怡、盧瑞華、朱君毅(2012)香港早期聾人教育與香港手語源流的關係、教育學報、2011年、第39卷第1―2期、pp.139―156

・Sze, F., C. Lo, L. Lo, and K. Chu (2013), “Historical Development of Hong Kong Sign Language”, Sign Language Studies Vol. 13, No.2, Winter 2013, pp.155-185.

・Tan, T. (2011a) “School for the Deaf set to wind down”, Straits Times, Nov. 5, 2011.

・Tan, T. (2011b)“Changing face of special needs”, Straits Times, Nov.5,2011. (http://www.autism.org.sg/press/2011/111105-changing_face_of_special_needsST.pdf)