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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年7月号

時代を読む57

全国身体障害者スポーツ大会創設経緯

東京パラリンピックを控えた1960年初頭、わが国の身体障がい者の就労率は約6割で、そのうち約9割が国民の標準収入を下回っていた1)。車椅子バスケットボールの日本代表として1964年東京パラリンピックに参加した故浜本勝行氏は、「身障者と一般社会とでは鉄のトビラで仕切られているようなもので民間会社への就職はまず考えられなかった時代であった」2)と当時を振り返る。一方、東京パラリンピックに参加した外国の選手たちに、「乗っている車椅子のかっこいいこと、丸太のような腕、キャスター(前輪)を上げて素知らぬ顔をして話に興じている姿、いやはやあれが身障者かと見るもの聞くものすべて驚きで電撃的なショック」を受けたという2)

東京パラリンピックの名誉総裁に就任した皇太子殿下(今上天皇)は、大会終了後、「このような企てが行われたことは、身体障がい者の方々に大きな光明を与えたことと思います。このような大会を国内でも毎年行なってもらいたいと思います」3)と関係者にお言葉を賜った。このような背景のなか、厚生省と東京パラリンピックを主催した大会運営委員会は、国民体育大会の開催地で身体障がい者のスポーツ大会を毎年行えるようにするため、国民体育大会を所管する文部省体育局に協力要請をした4)

翌1965年、大会運営委員会の残余財産を引き継ぎ創立された(財)日本身体障害者スポーツ協会は、厚生省、国民体育大会開催地とともに「全国身体障害者スポーツ大会」の開催を決定。同年11月6日・7日、岐阜県において第1回全国身体障害者スポーツ大会の開催が実現した。大会には、選手523人、役員および付き添い500人、計1023人の選手団が47都道府県・6指定都市から参加した。参加資格は、身体障害者手帳の交付を受けた16歳以上の者で、前年の国際身体障害者スポーツ大会に参加していない選手というものであった5)。このような参加制限は、第32回広島大会まで続いた。

実施競技は、陸上競技、卓球(盲人卓球を含む)、水泳の3競技で、水泳を除き一人2種目まで参加することができた。また、競技規則がなかったため、国際身体障害者スポーツ大会運営委員会編の「身体障害者スポーツ競技規則」を用いて実施された。大会は、2001年に全国知的障害者スポーツ大会と統合し「全国障害者スポーツ大会」として現在も開催。本年(2014年)開催される第14回長崎大会で通算50回を数える。

(井田朋宏(いだともひろ) 公益財団法人日本障がい者スポーツ協会企画情報部長)


【参考文献】

1)社団法人全国社会福祉協議会「日本の社会福祉」1958

2)全国障害者総合福祉センター「戸山サンライズ情報 通巻第2号」1985

3)財団法人国際身体障害者スポーツ大会運営委員会「パラリンピック東京大会報告書」1965

4)東京新聞「朝刊15版10面」1965.11.15

5)岐阜県「第1回全国身体障害者スポーツ大会」1965