音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年7月号

列島縦断ネットワーキング【神奈川】

難しいから、おもしろい
~創る会の試み~

池田まり子

2014年6月14日、梅雨の晴れ間の蒸し暑い日に、町田市のコメット会館には60人余りの人々が狭い会場を埋め尽くしました。その場にはさまざまな障害者、家族、支援者、障害のない人…この集いのような社会が訪れたなら、どんなに素敵だろう、と会場を見渡して思いました。

2005年9月に発足した「障害者の生活を創る会」(以下、創る会)は、「どんな障害があっても街の中であたりまえに暮らしたい」そんな思いで障害福祉の充実を求め続けて、さまざまな立場の人たちが集い、思いを出し合う場づくりをしてきました。ちょうど「支援費制度」がスタートし、支給量上限撤廃や自己負担軽減などについて全国的に大きな運動が広まり、多くの団体が集い厚労省前で声を上げていました。確かに大きな運動は大切ですが、地元から変えていく必要があるのではないかと私たちは考え始めたのです。それまでも相模原市では、各障害者団体がそれぞれ独自の運動を続けていました。私が所属していた「生きる会(旧、脳性マヒ者が地域で生きる会)」も当事者団体として長年活動し、市行政との関係も築いてきました。生きる会は脳性マヒ者をはじめとする全身性障害者の団体で、市内の他団体とはある意味異なった存在でした。

食事をするのもトイレに行くのも“1割負担”、「サービス」というきれいな言葉のもとで、障害者生存権さえ奪われかけているのではないか…今こそ団体の枠を超え、障害種別の枠を超え、集い、地元で声を上げて、仲間一人ひとりの「命」をみんなで守るべき時ではないかということで、2005年6月に公開学習会を開き、創る会発足に向け呼びかけを行いました。翌年8月のアピール行動は参加者約100人となり、JR相模原駅から市役所まで「障害者福祉を後退させるな」とシュプレヒコールを響かせながら、障害種別を超え、家族や支援者も加わり行進しました。そして、同じ年の2006年暮れ、相模原市は国より先に負担上限額引き下げ(案)を打ち出し、翌年4月「障害者自立支援法」でそれを実施しました。

その後も創る会は、月1回の学習会、年に1回の市民や行政に働きかけるアピール行動と市福祉課との話し合いを続けてきました。

2008年に市内の上鶴間で起こった精神障害者と知的障害者の2人の息子を母親が殺害してしまった悲惨な事件が起こった時は、全国に賛同を呼びかけ(団体数72団体)、再発防止に向け市の相談体制の充実を求めました。また、仲間の一人である脳性マヒ者の過酷な入院生活をきっかけに、長年求め続けてきた「入院時のコミュニケーション支援」について緊迫した話し合いの末、2009年に市独自の制度化に至りました。さまざまな活動を通し、精神障害の方や家族、支援者など仲間の輪は広がりました。またハード面でいえば、公共交通機関のバリアフリー化も進みました。

しかし、まだまだ生きにくい社会であり、障害の有無はもちろんのこと、障害者同士でも偏見が残っているのが現状です。障害種別を超え、理解しあい、共に考えていきたい。そして、障害のある人もない人も生きやすい社会になったらどんなに素敵でしょう。

今から約40年前までは、障害があるというだけで義務教育も受けられず、重度障害者は家の中に隠されているか、劣悪な生活を強いられる施設にいるしかありませんでした。その中で自らの存在価値さえも薄らいでいったことでしょう。

1970年横浜で起きた母親による障害児殺害事件をきっかけに、青い芝の会は立ち上がり、自らの存在を主張し始めたのです。社会の中で認められないからこそ強い主張になり、周りを排除していくようなかたちになったのでしょう。

かつては障害者運動の中では、健常者も親も敵でした。周りの「愛の壁」が障害者の自立を阻むのだと言われてきました。そして、同じ障害者が障害種別ごとに団体を組織することでより強固な主張につながったのです。

その時代、その時代で運動のかたちも変化していく必要があります。過去の強烈な運動があったからこそ、障害者が街に出られるようになり、ある程度の社会保障も確立されました。

それでは、現在「差別や偏見」は全くないのでしょうか。いいえ、あります。昔よりも見えにくくなっているのです。ある程度の社会保障と同時に自由も奪われていることに気づきにくくなっています。見えにくいものと闘うのは一人では厳しいのです。だから、今こそみんながつながっていくことが大切なのです。

今まで、障害のある人とない人、障害種別の違う人、みんな分けられて生きてきたので、お互いを理解するには時間がかかると思います。でも、相手を認めようとする思いが大切なのです。相手を見つめれば、きっと見つめ返してくれるはずです。

介助も制度が整ったように見え、障害者が問題を訴えていく矛先が、国から事業所にすり替えられたのです。本来は敵対するのではなく、事業所もヘルパーも障害者と同じ方向を向き、一緒に制度をよりよいものに、力を合わせて変えていくことができるのです。

また、親や家族もそれぞれの悩みを抱えて、日々葛藤しています。親自身も気持ちを受け止め理解されることで、変わっていきます。それは、障害のある子ども一人が親の気持ちを受け止めるということではありません。いろいろな仲間や団体を通して親が変わっていくこと、親が子どもの人生を抱え込むのではなく、親自身の人生も大切にしていこうと思えた時、子どもの自立への理解が深まるのではないでしょうか。

いろいろな人が、いろいろな気持ちを認め合ってつながっていくことなど、「とうてい無理」という声が聞こえてきそうですが、難しいからおもしろいのです。

創る会は、試行錯誤しながら10年間活動してきました。時に人が集まらず、停滞気味の時期もありました。それでも“想像から創造へのエンパワー! 生活に不安を感じたら…あきらめないで、必要なときに想いを寄せあおう” 継続は力なり!と踏ん張ってきました。そして、昨年1年は初心に返り、いろいろな障害をもつ人の話を聞こう! と、障害者運動の歴史に触れ、今後のつながりや活動について考える学習会などをしてきました。特に障害の違う人たちの話は、お互いに知らないことばかりで、みんな興味津々でした。こんなに近くにいるのに知らないことは多いね。これをもっと多くの人に知ってもらいたい。そんな思いで6月14日、シンポジウム「どこへゆく?障害福祉!!~障害の種別を越えて共に考えよう~」を開催しました。

パネラーに視覚障害者、精神障害者、知的障害者、肢体障害者(頸損、筋ジス)とさまざまな方が並び、当事者の立場に理解のある神奈川工科大学の小川喜道先生がコーディネーター役として会場からの声も拾い、時間が足りないほどの熱いディスカッションになりました。私は、知的障害者の方のサポーター役でしたが、私の言語障害を視覚の方がフォローしてくれたり、知的の方からも打ち合わせ以上の話が出たりと、皆のパワフルさを感じました。

私自身、相模原市で20年間暮らして活動してきましたが、個人的事情で今は横浜に暮らし、町田のCILで働いています。でも、相模原での活動も続けていきたいと思っています。なぜなら、一人の声から始まる運動を共にやっていける仲間がいるからです。もちろん町田にもいます。一つの市が変われば、またほかの市も変わると信じています。

今後も創る会は「難しいから、おもしろい」という試みを続けていきたいと考えています。

(いけだまりこ 障害者の生活を創る会代表)