音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年10月号

障害学生としての大学での学びが「今」にどう生きているか

熊谷晋一郎

脳性まひという障害をもって生まれた私は、トイレに行くことや衣服の着替え、入浴など、身の回りのあらゆることに人の手助けが必要です。思えば物心つく前から、両親は私が少しでも普通の手足を手に入れられるよう、厳しいリハビリを行なっていました。床の上に寝かされた私に、親が馬乗りになって、曲がった腕や足をまっすぐにしようと組み伏せてきます。私はその痛みに耐えきれず、毎日泣いていました。泣き声が家の外に漏れぬよう、親は窓を閉め切ってリハビリをしたものです。いつも体中があざだらけで、風邪をひいて近所の病院にかかると、診察時に全身のあざを目にした小児科医が、虐待を疑って別室で母親と面談をしたこともありました。

建物も、道路も、階段も、交通機関も、机やいすも、制度も、健常者と呼ばれる人の体に合うようデザインされています。そんな世の中と、健常者とは異なる体をもった人々との間には、高い壁が立ちはだかっています。この壁を壊すには、私のからだを健常者に近づけるか、逆に世の中が私のからだに歩み寄るかの二通りしかありません。親は、一番目のほうを信じてリハビリをしていました。そして、健常になってから向こう側にある社会に出て行きなさいと、親子の密室に囲い込み続けていました。私は、壁にぶつかる機会すら奪われていたのです。

親は、リハビリをすれば健常者に近づくという医師の教えを信じ、一生懸命リハビリをしていましたが、あまり、私のからだには変化がありませんでした。小学校の低学年くらいになると、急に、親が死んだ後、自分はどうなってしまうのか、考え始めるようになりました。健常者になれないままの状態で世の中に一人放り出されたら、きっと生きていけないだろうと思いました。親が死んだ後、自分も死んでしまうのだろうか。そう思うと怖くなって、夜になると泣いていました。

そんな頃、当時市役所の障害福祉課に勤めていた父親の関係で、地域で暮らす身体障害者が集まるイベントに参加しました。そこには、ベッドに車輪がついたような電動車いすを口で操作しているおじさんや、車いすを介助者に押してもらいながら参加しているおばさんなど、一見、私よりも重そうな障害をもった人々がたくさん来ていました。しかも驚いたことに、彼らの多くは親元を離れ、地域でアパートを借りて、不特定多数の介助者を雇いながら一人暮らしをしているというのです。私は、彼らの暮らしぶりについて詳しいことは分からないけれども、大きな希望を感じました。健常者でなくたって、社会の中で暮らしていけるらしいという強力な証拠が、そこにあったからです。

そのころから、私はできるだけ早く、親から離れて一人暮らしをしなければ、と思うようになりました。そのことを母親に話すと、反対されました。身の回りのことが何一つできないのに、一人暮らしなんてできるわけがないという母の意見はもっともだと思いました。しかし同時に、このまま密室で、壁にぶつかることもなくリハビリを続けていくことには、何の見通しもないと主張しました。「それなら、実家の近所で一人暮らしをするか、私と二人で暮らしましょう」と母は提案しましたが、それでは何の解決にもならないと感じました。最終的には、父親が私の後押しをしてくれ、大学進学とともに私は東京で一人暮らしを始めました。

当時、まだ出はじめたばかりだった携帯電話と分厚い電話帳を、緊急用に手元において、大学の近くに見つけた8畳のアパートに住み始めたのは18歳の時です。なにしろ、どこに壁があるのか、どんな助けが必要かもつかめていない私は、ごろんと床に横になるばかりでした。ぼんやりとテレビを見ていると、下腹部が痛くなってきました。親と暮らしていた時には、こんな時には「お母さん、トイレ」と一言いえば母親がすぐにトイレに連れて行ってくれていました。つまり、排泄欲求が母親の介助によって迅速に解消されていたのです。

しかし、今は違います。排泄欲求は解消されないまま、下腹部にとどまり続けています。私は初めてまじまじと、長時間自分の下腹部と向き合い続けることになりました。しばらくすると波は過ぎ去っていきました。しかし、その後もうしばらくすると、先ほどよりも少しだけ大きくなった波が襲ってきます。この波は、やり過ごせるだろうか、無理だろうか。次はいつやってくるだろうか。私は高精度に自分の下腹部のシグナルに聞き耳を立てます。そして、もう少しこらえてくれないだろうか、などと、下腹部に語りかけもします。

何度かやり過ごしているうちに、波は大きくなっていき、ついにこれ以上は我慢できないという段階に入りました。私は床の上で寝返りを打ち、匍匐(ほふく)前進でトイレの方角に這っていきます。

思いのほか、トイレまでの道のりは遠く感じられました。そして、ようやくトイレの便器の真下までたどり着きました。床から見上げた便器は、奇妙な形をして私の前に立ちはだかっていました。私は、便座の上に右手をかけ、えいやっと力を入れて膝立ちをしました。この時初めて、「リハビリでやった膝立ちは、この時のためにあったのか!」と目から鱗でした。そのまま、壁に手をかけて立ち上がろうとしますが、床が滑りやすいのと、狭いのと、手をかける場所がないのとで、何度やってもうまくいきません。いろいろと作戦を立て直しては何度もチャレンジするのですが、うまくいきません。焦りが強くなるのと並行して、下腹部の痛みも増してきて、何度目かの挑戦でついにタイムオーバー、失禁をしてしまいました。

しかし、この試行錯誤の過程で、実にたくさんのことを私は知りました。「私はこのくらいまで腰をツイストできるのか」「案外体のこの部分は動かないのか」など、私のからだについてだけでなく、「床は滑りやすい」「トイレの便座は力をかけるとぐらつく」などの、環境についての情報もたくさん獲得できたからです。そしてそのようにして得られた情報を元手に、「ここにこういう手すりがあるとよい」「ここは介助してくれる人手が必要だ」など、主張すべきニーズも構築されていきました。

一人暮らしは不便でした。しかし、その不便さを補って余りある自由がそこにはありました。健常者と同じように箸を持てなくても、それを注意する視線はそこにはありません。私は、私のからだに合ったやり方で、私の目的を達成するための試行錯誤ができるのです。そこには、親亡き後どうしよう、というような漠然とした不安はありません。トイレに行くにはどうすればいいか、といったきわめて具体的な課題があるだけです。

1995年に入学した当時、現在のように大学の中にバリアフリーを専門にした部署はありませんでしたが、私の学校生活をサポートするための複数の教員からなるワーキンググループが臨時に設置され、グループのメンバーと一緒にキャンパス内を視察し、「ここにスロープがあるとよい」「この建物に車いす用トイレがあるとよい」など要求する機会にも恵まれました。それでも一部の教室へのアクセシビリティは改善されず、同級生に車いすごと運んでもらって授業を受けなければいけない場面もありました。

しかし、おおむね授業や実習などのカリキュラムに関してはスムーズに履修することができたと思います。アパートでの暮らしに比べると、大学キャンパスの中での生活にはそれほど大きな困難はありませんでした。キャンパス内には常に多くの他者がいたので、困ったことがあれば、周囲にいる人に声をかけて解決することができたからです。

学生時代の出会いの中で、その後の私の活動に大きな影響を及ぼしたと感じるものは二つあります。

一つ目は、地域の中で自立生活を営んでいる障害をもった先輩たちとの出会いでした。先述のように、親と暮らしていた頃から自立障害者と会う機会はありましたが、同じ自立障害者同士として夜通し「自立とは何か?」などについて喧々諤々(けんけんがくがく)語り合うという経験はその時が初めてでした。厳しい問いかけに対して必死に答えようとするなかで、今日に至る私自身の考え方の核が形作られていったことは間違いないように思います。

二つ目は、聴覚障害をもつ学生やろう文化との出会いでした。私は同級生の幾人かと一緒に母校初の手話サークルを立ち上げて、第二外国語に手話を導入するよう働きかける運動をしました。その取り組みの中で、私のように外から見えやすい障害をもつ人と、聴覚障害のように周囲から見過ごされがちな障害をもつ人との間に主張の違いがあることを知りました。多数派との差異がどれほどのものなのかについて、本人も周りの人も等身大に把握することは困難です。差異を過大評価することもあれば、過小評価することもあります。見えにくい障害はどちらかというと差異の過小評価を受けやすく、それゆえ当事者運動における異議申し立ての方向性は「私たちはあなたたちとは同じではない」という差異を強調するものへと向かわざるを得なくなります。

統合教育の是非をめぐって、ろう者の仲間と議論した時に「私たちはあなたたちと同じだ」という主張と「私たちはあなたたちとは違う」という主張は矛盾などしておらず、どちらも「等身大の差異を認めよ」という一点で連帯できることを知りました。

もともと数学者になりたくて大学に来た私が、大学3年で医学科に転科した時の動機の一つは、人びとの見えにくい差異を正確に知りたいという思いでした。その進路選択にも前記のような出会いは大きな影響を与えているように思います。

不安に安住せず、まずは飛び込んでみて、不安を課題に変えていく。あとは楽しみながら試行錯誤して、私にあったやり方を探り当てていけばいい。大学時代の一人暮らしの経験で得た自信を胸に、私は臨床医の道にも飛び込みました。しかし、そこで私は壁にぶつかったのです。

試行錯誤には失敗がつきものです。一人暮らしでは失敗の対価は自分が支払えば済みますが、医師としての失敗の対価は患者が支払わなくてはなりません。研修医の私は失敗するたびに、人一倍落ち込み、こんな自分が医師をやっていいのかと悩みました。

行き詰っていたそんなある時、ある上司が私に「思い切ってやってみなさい。責任は私がとる」と声をかけました。その言葉を転機に、私は再び、試行錯誤の循環に入れるようになり、ほどなくして私自身の臨床スタイルをつかめるようになったのです。障害をもった未熟な研修医にそうした言葉をかけてくれたその上司のことを、私は尊敬しています。

現在、私は当事者が自分自身の困りごとを研究する当事者研究という取り組みに関心を持っています。差異の可変性を過大評価し健常者に近づけようとするリハビリの経験、差異を受け入れずに排除する社会に対して異議を唱えた障害者運動、差異の過小評価に異議申し立てをするろう文化などとの出会いから、等身大の差異やその可変性を把握することの困難と重要性を学びました。努力によっては変えられない差異を変えられると誤認すれば人は容易に自責の回路に陥ります。また、ちょっとした工夫で変わりうる身体や環境を変えられないものと誤認することは、人びとを適応的選好の罠に陥らせうるものです。

私は、可変性や等身大の差異についての問いには常に暫定的な解しかなく、たえず線を引きなおす必要があると考えています。当事者が研究するというパラダイムは暫定的な解を仮定しつつ動くことと、解の反証可能性を担保し続けることの両立をその倫理的な基礎とする実践です。今でも私は、大学時代に議論した人々の視線を常に感じ続けながら、手探りで日々取り組んでいます。

(くまがやしんいちろう 小児科医・東京大学特任講師)