音声ブラウザご使用の方向け: ナビメニューを飛ばして本文へナビメニューへ

「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2014年10月号

知り隊おしえ隊

旅で見た!世界の障害者

木島英登

下半身マヒでも乗れる三輪の手こぎ自転車があることを知ったのは、13年前のこと。調べると日本では販売されておらず、実際に乗って楽しんでいる日本人の情報も拾えなかった。しかし、イギリス人女性カレンが日本縦断をしたことを知った。

「あなたに会いに行きたい」とメールを送った。「いいよ」とすぐに返事がきた。カレンは命知らずの元ロッククライマー。崖から滑落して脊髄を損傷、車いすになった。2人乗りのハンドサイクルを特別に製作し、中央アジアのシルクロードやニュージーランド一周を走破していた。トイレは地面に穴を掘り、ビニールのイスを膨らまして座ってすると平然と言う。日本縦断の時も日程も宿泊先も決めておらず野宿もしたわと笑う。私も世界中を旅しているが、世界には強者がいる。度胆を抜かれた。

スコットランドの空港に到着し、彼女の運転する車の中で、「家についたらハンドサイクルに乗ってみる?」と尋ねられる。長いフライトで疲れているから、明日に試乗すると丁寧に断る。全くワイルドである。住んでいる家も驚いた。車イスで生活しているのに、何も改造していなかった。玄関にスロープはあるが、駐車場は砂利のまま。トイレには手すりなし。シャワー室には椅子を置いているだけ。最小限のものだけあれば生活できる。日本でこんな人はいない。ソファーを引き出すと、そこがベッドになった。寝袋を渡され、そこが私の寝床となった。

緩やかな起伏な丘がいくつも続く牧草地。両側に石が積まれた道路は、おとぎ話の世界。赤ペンでコースが書かれた地図をもとに一度も乗ったことのないハンドサイクルをこぎ進む。カレンはすでに仕事に行った。田舎道を一人で走るというわけだ。厳しいのは当たり前。したければ自分でなんとかしろ。私も根性を見せて、約20キロのコースを3時間かけて完走した。

夜はカヤックのクラブに連れていってもらった。スコットランドには美しい島や川がたくさんあり、カレンは車いすになってからもカヤックを楽しんでいた。地域のスポーツセンターのプールが練習場。芝のサッカー場、ラグビー場、バスケットコート、器械体操場なども併設されていた。小さな街なのに、人々が集うスポーツ施設があるとは素敵だ。そして障害のある人も一緒にスポーツができるようにバリアフリー。障害者専用の施設でなく共用施設なのがうれしい。

プールでカヤックを楽しみ、少し泳いで体をほぐした後、クラブの仲間たちとパブへ。スポーツの後の一杯は最高!黒ビールをすすりながら肩を組んで語り合った。

時は流れ、ロンドン・パラリンピック。地元開催となったカレンはハンドサイクルの選手になることを決意。見事に金メダルを獲得。おめでとう!すごいよね。

豪快な車いすといえば、米国人のマットも忘れられない。障害のある人へのレクリエーションを提供するNPOの主催者。コロラドのスキー場で私にチェアスキーを教えてくれた。夏はロッキー山脈を1週間かけて横断するサイクルイベントに参加しているので、私も参加させてもらった。大会参加の直前は、彼の家に泊めてもらい一緒にトレーニング。マットは、眠かったら寝る。腹が減ったら食べる。寝る時間も食事の時間も決めてないのには恐れいった。

州都デンバーの湖で水上スキーの体験会があった。彼らが開発した遊び。いすをボードに装着して、モーターボートで引っ張ってもらう。障害のある子どもたちを中心に、たくさんの参加者がいた。手伝いをする学生ボランティアも大勢いるが、彼らも水上スキーを楽しんでいた。皆が楽しむのは当たり前。全員の笑顔がまぶしい。

夕方はダウンタウンの公園でマットと2人でサイクリング。自動車からハンドサイクルを降ろし、用意を整えている時、かわいい仔犬を連れた女性が声をかけてきた。白いチビTシャツに、太ももが露わな黒いホットパンツ。くるぶしの小さなタトゥーが素足のジョギングシューズから見える。束ねた金髪が夕日に光る。美女に出会えて、エネルギー満点。トレーニングにも力が入る。

その夜は、このままデンバーに宿泊するという。公園を出てすぐ、マットの車は停車した。何かトラブルでもあったのかと思ったが、宿泊する家に着いたのだった。閑静な住宅街の一軒家。玄関を見ると、さきほどの美女が手をふっている。手入れされた庭、洗練されたインテリア、欧州人の家にきたのではないかと錯覚する。幾人もの米国人の家を訪問したことがあるが、ゲイカップルの家と並んで、最も片づいた家だった。

美味しい夕食とワインをご馳走してもらう。寝る時間となり、ゲストルームに案内された。アンティークのシングルベッドに女性用の寝具。私ひとりしか寝れない。さて、マットはどこに寝るのか?

翌朝、顔を洗いにいくと、主寝室のドアが開けっぱなしになっていた。廊下からみえるダブルベッドには、上半身裸で寝るマットと、その腕に抱かれる白いガウンの女性。私の気配に気づき、目を覚ました彼女は、爽やかな笑顔を返してくれた。友人を連れて泊まりにいき、自分は女と一緒に寝る。やってくれるぜ。しかも、何も恥じることなく堂々とした姿。格好良すぎる。

マットと出会った時、私はカリフォルニア大学バークレーで研修生をしたいた。「障害をもつ学生への受け入れ態勢とその組織」を研究していたのだが、その留学交渉のため、大学を訪問し所属長に直談判した時の話もしたい。

交渉の場にはなぜか、もう1人が同席。秘書なのか?でもどうして私の隣に立つのだろう?すると、私の話す言葉を復唱し始めた。両手を動かしながら。

手話通訳者だった。交渉相手の所属長は、耳の聞こえないろうあ者だったのだ。ろうあ者が組織の要職につくなんて考えもしてなかったことを恥じた。手話通訳者をつけることによって仕事の能力が発揮されるなら問題ないと考える米国の先進性に恐れ入った。ただ通訳者が、文法間違いや間違った単語もそのままに訳すのは恥ずかしかった。気を利かして訂正してくれよと思うのだが(笑)。

尊敬する車いす。最後の1人はパキスタンの障害者団体マイルストーンのシャフィーク。私の米国留学は、ダスキン愛の輪基金の第22期海外研修生として派遣された。愛の輪基金は、アジア太平洋から障害者を日本へ受け入れる研修制度も実施しており、シャフィークはその2期生として1年間、日本で研修した。初めて彼に会った時、目の輝きが違うなと印象に残っていた。

パキスタンを訪問した昨年、彼らの事務所に泊めてもらった。台所や居間は一つだか、それらを囲むように複数の寝室がある。中庭があり、吹き抜けで天窓があるのもイスラム様式。電気が停まっても採光できるので明るい。停電も多いため、電気がないことを前提に、暑い夏でも風が通り抜けるような構造となっていた。

さて、来日してシャフィークが一番驚いたのは、日本の機能的な車いす。病院にあるような車いすはパキスタンにもあったが、コンパクトで機能的な車いすは存在しなかった。帰国後、彼は機能的な車いすの生産を開始。デザインは日本の車いすを真似ているが、材料はパキスタン製。1台120ドルで生産。安さを重視するため、フレームはアルミではなく鉄である。当事者によるデモや抗議により、政府から地域障害者団体を通し、個人へと車いすが提供されるシステムも構築。13万5000台を作ったが、さらに100万台の車いすを全土に配布したいと目標を持っていた。

つい10年前まで、まともな車いすが存在しなかったのに、環境は一新された。

自動車の手動装置も日本を真似て制作。オートマチック車を手で操作して運転することができること、その改造方法をパキスタン全土に広めていた。空港のターミナルビルが新しくなる時も、車いすトイレの設置とデザインを提案。バリアフリー化に貢献。まさに改革者である。

私がパキスタンの街を観光する様子はビデオ撮影された。映像によって伝えるのが誰にでも分かりやすく、最も効果的だからだ。車いすで街に出る様子など、数多くのビデオを撮影し、人々にバリアフリーの必要性を訴えかけていた。現代に即した方法。元気一杯、夢を持ち活動する姿は、充足された人々にはない未来へのエネルギーに満ち溢れていた。

男同士、女性の話もした。イスラムの世界。男女交際も厳格と思いきや、オープンなもの。婚前交渉はNGも、いちゃいちゃはOK。中絶が社会問題になっているのは意外だった。浮気もあるらしい。しない国はないでしょだって。そりゃそうかも。そして、障害者の結婚は問題なく可能とのこと。結婚率は日本よりパキスタンの方が高いかもしれない。外見をあまり気にしない。大家族制なので家事も分担できる。助け合いが違和感なくできる。それらが理由かもしれない。

(きじまひでとう 車いすの旅人、世界100か国以上を訪問、バリアフリー研究所代表)