「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年5月号
3.11復興に向かって私たちは、今
東日本大震災を乗り越えて家族と一緒に生きる
大坂昭二
私は、41歳の筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者です。わずかに動く額にパソコンのセンサーを貼り、コミュニケーションをとっています。
2014年8月。私は、東日本大震災から3年5か月の入院生活を経て、新天地で新たに在宅療養を始めました。今は、身体を動かすこともできませんし、話すこともできませんが、娘たちの笑顔に癒され励まされ、そして、妻にお尻を叩かれながら幸せに暮らしています。
2009年10月。私は、36歳でALSと告知されました。その時私は、妻にこんなことを言われました。
「人工呼吸器を付けるか付けないかは、自分で決めていいよ。その代わり、付けると決めたのなら、一生懸命に介護をするよ」
私は、この言葉に生きる勇気をもらいました。そして、私には2人の娘がいますが、「私は、この娘たちの成長を見ていきたい!」と強く思いましたので、人工呼吸器を付けて生きていくことを決意しました。それから、私は、昼間は隣町のデイサービスに通い、夕方からは妻と母に介護をしてもらいながら在宅療養をしていました。
2011年3月11日。東日本大震災が起こりました。
その時、私は、いつものようにデイサービスで、車椅子に乗ってパソコンをしていました。突然、大きな音とともに建物が大きく揺れ始めました。テーブルが倒れ、本や書類などが散乱しました。室内は、大変なパニック状態になり、あちこちから悲鳴が聞こえてきました。
そんななか、一人の看護師さんが、私の車椅子が倒れないように、そして、私に物が落ちてこないように私を守ってくれました。私は、地震の怖さよりも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そして、私は、少し地震が収まったのをみて、外に出ました。外は、雪が降っていてとても寒かったので、寒さをしのぐために車に乗りました。車では、震災関連のラジオが流れていました。
「陸前高田市高田町、水没」「えっ?津波」
私は、デイサービスが高台にあったため、ラジオを聞くまで津波が来ていることを知りませんでした。その間、家族みんなは、必死で津波から逃げていました。それを思うと、今でも涙が出てきます。
幸いにも、妻と娘たちは無事でした。しかし、津波で母を亡くし、そして、家を流されました。
それから、私は、ショックから立ち直れないまま、生まれ育った街から2時間ほど離れた内陸の病院に運ばれ、先の見えない入院生活が始まりました。私は、家族に会えないさみしさと、これからの生活の不安から、魂が抜けたように外をボーっと眺める日が続きました。しかし、入院してから半月が経った頃、妻と娘たちが、私に会いに来てくれました。この時、私は「もう一度、家族と一緒に生活がしたい!」と強く思いました。
私は、震災後、5か所の病院に入院しました。私たち家族は、転院後すぐに、どの病院でも同じことを聞かれました。「この先どうしますか?」。それは、在宅療養はどうするつもりか?できないのであれば次の病院を探すか、ということです。
今の医療制度では、病院側の立場になれば当然のことですが、被災し、家を確保するすべもなく、先の見えない生活を送っていた私たちには、あまりにも厳しい現実でした。しかし、この先ずっと、数か月単位で病院を転々とする生活は考えたくもなく、家がないまま、在宅療養に向けて模索する日々が始まりました。
一番の希望は、生まれ育った街で、昔のように家族そろって生活することでしたが、街は壊滅状態でしたので、これは残念ながら難しい選択でした。
そこで、次に考えたのが、入院していた病院がある街で、独居生活をすることでした。私は、実際に独居生活しているALS患者さんを知っていたので、私にもできるのではないかと思っていました。しかし、いろいろと情報を集めるうちに、現実は厳しいと分かりました。
私は、悩み苦しみました。「私には、在宅療養はできないのだろうか?」。しかし、妻は諦(あきら)めませんでした。
「それじゃ、家を建てよう」。私は、冗談ではないかと思いましたが、妻は本気でした。本当に、妻の思い切りの良さには、いつも驚かされます。そして、娘たちも転校することを快く承諾してくれました。
それから私たち家族は、私が40歳になり、介護保険が利用できるようになった頃、家を建てました。私は「これでやっと家族と一緒に生活ができる」と思いました。しかし、困難は続きました。
私は、約2時間おきに痰の吸引をしていますが、吸引をしてくれるヘルパーさんが見つかりませんでした。以前は、妻と母に吸引をしてもらっていましたが、今はもう母はいません。吸引を毎回、妻に頼んでいたら、妻は、体力的にも精神的にも参ってしまいますので、吸引をしてくれるヘルパーさんが、私には絶対に必要でした。
そんな時、私は、日本ALS協会岩手県支部会長の中村忠一さんと奥様のれい子さんに出会いました。中村さんは、私が入院をしている病院に何度も足を運んで私たち家族の話を聞いてくださいました。そして、私のために、吸引のできる介護事業所を立ち上げてくださいました。おかげさまで、私は、最高に幸せな在宅療養を手にしました。本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからは、私が、悩み苦しんでいる人たちを助けていきたいと思います。
(おおさかしょうじ 岩手県盛岡市在住)