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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年6月号

文学やアートにおける日本の文化史

江戸落語にみる障害者

湯川博士

落語には障害者が少なからず出てくるが、時の政府や世間の目は案外優しかったと言える。

江戸時代には社会福祉ということばはないが、弱者でも暮らせるような仕組みはあった。まず長屋住まいの貧乏人には税金がなかった。町内の防火・防犯、溝の清掃、お祭り、行き倒れ、捨て子の救済などは町入用(ちょうにゅうよう)という町の経費で賄い、それらは地主など富裕層が負担していた。幕府への税金や寄付金もすべて地主らが払っていたので、貧乏人は安い家賃と食費の心配だけでよかった。

障害者で多いのは盲目で、子どものころや大人になってからの病気でなる人が多かった。彼らを保護するために組織(総録の久我家が統括し朝廷から認可をもらう仕組み)を作り階級を設けた(検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、匂当(こうとう)、座頭(ざとう)、衆分(しゅうぶん))。この階級を登るための金を官金といい、これを得るためとして官金貸しを認めた(俗に言う高利貸し)。また職業として、平家琵琶、鍼、灸、按摩(あんま)の技術を習得させた。盲目でも最高位の検校に登れば、下級武士よりも社会的には上にみていた。

一介の按摩が検校に出世する噺(はなし)が、『三味線栗毛』だ。

[酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)という大名に3人の子があった。末っ子で次男の角三郎は父から疎まれ、大塚の下屋敷に遠ざけられ、家来より低い待遇に耐えていた。角三郎は肩凝りがひどいので按摩の錦木(にしきぎ)を呼ぶが、話がおもしろいので毎晩呼ぶようになる。あるとき角三郎の骨格は大名になる骨組みと言われた。嬉(うれ)しくなった角三郎は、万一大名になったらお前を検校にしてやると約束した。錦木が大病にかかり屋敷に出入りしないうちに、酒井家当主が隠居し、病身の長男に代わり、急遽(きゅうきょ)、次男・角三郎が雅楽頭の跡目を継ぐことになる。これを聞いた病身の錦木は起き上がり、むさい身なりのまま上屋敷へ駆けつけると、中へ招き入れた上、約束通り検校になるよう計らってくれた]

落語には珍しく実名十七万石・老中という名門の大名が登場だ。錦木はしがない按摩(衆分)で、総録に千両納めないとなれない検校は雲の上の存在だ。それが実現してしまうのは、角三郎の不遇な時代にもみ療治をしながら励ました恩によるものだ。

めくらの話は他にもたくさんある。目が開くよう願かけをして、見事満願日に目が開いたのが『影清』のにわかめくらで彫刻師の定次郎だ。信心のおかげで目が開いたと思ったが、それが夢だったのは『心眼(しんがん)』の按摩・梅喜(ばいき)だ。目が開いた梅喜が美人芸者と仲良くなりそれに嫉妬した女房が自殺…という所で目が覚めた。恐い夢を見た梅喜は開眼のための信心をやめると言い出す。女房がなぜと聞くと、「なあに、めくらだって不自由はねえ。寝ているときはよく見える」。梅喜は子どものころからのめくらで、自分では気が付かなかった美男子という設定、目が開いたおかげで女にもてたという人間臭い噺が入っている。

盲人は案外、見栄張りで知ったかぶりをするという噺もある。めくらだが武芸百般、とくに馬術が得意と吹いたために馬場で馬に乗せられ死ぬ思いをするのが『柳の馬場』の富の市。なんでも周囲が見えていると強情を張ったおかげで夏の蚊帳と麻のれんを間違え、蚊帳の外に寝て一晩中蚊に食われてしまうのは『麻のれん』の杢(もく)の市だ。

さて、盲人より多いのが頭の回転が鈍い与太郎の噺だ。少し頭の回転が鈍い人や知恵遅れの役を落語では与太郎さんが一手に引き受けている。『孝行糖』が典型で、与太郎は親孝行の褒美に青刺し五貫文をお奉行からいただくが、馬鹿だからすぐに使ってしまうだろうと考えた大家や長屋の知恵者が手助けして、孝行糖という飴売り屋に仕立ててしまう。今なら障害者の運営するパン工房に当たるかもしれない。

筆者もときどき高座で落語(芸名・仏家シャベル)を演じるが、与太郎モノで気になるのが知恵遅れを強調する演者が多いことだ。実は与太郎は知恵遅れというワンパターンだけでなく、馬鹿正直なタイプも入っている。

『大工調べ』の与太郎は、修行が難しく計算も必要とする大工になれたのだから知恵遅れではないだろう。おそらく、人はよいが頭の回転が少し鈍く、胸に納めずなんでも口に出してしまう男だ。『道具屋』『金明竹』に出てくる与太郎も嘘やお世辞が言えないタイプだが、ヘタなりに客相手の商売が出来るのだから知恵遅れではない。『牛誉め』では与太郎が、「佐兵衛のかかあは引き摺(ず)りで(着物の裾を引き摺る花魁(おいらん)などを指す)」と本当のことを言ってしまう。佐兵衛は貧乏人から尊敬されるべき地主だが、その妻は花魁上がりだったということを悪気なくばらしてしまう。この場合の与太郎は、世間というのは嘘や隠し事があって初めて成り立っていることが分からない男だろう。

現代で言えば、与太郎には知恵遅れで特別支援学校に行く人と、それほどでもないが少し頭の回転が鈍い人も含まれる。学歴はあっても周囲の空気が読めず、人と話のテンポがかみ合わない人は現代の与太郎かもしれない。正直で親孝行で隠し事を胸に納められない人も与太郎であるから、十羽一からげに頭の回転が鈍い知恵遅れと演じてはいけない。

体が小さいとか片眼という身体上の欠陥を笑い飛ばす噺もある。

小人症(こびとしょう)の人は、終戦後、サーカスに出ていたりプロレスに出た時期もある。小さいことを武器に見せ物に出たのであるが、江戸時代にもあった。

『鍬形(くわがた)』は相撲取りだが身長三尺二寸(96センチ)しかなかったが、大男の雷電為右衛門七尺余(約2メートル10センチ)に勝った。ある小男がその伝説を聞き、二代目鍬形を目指し、相撲部屋に入門。激しい稽古をつけてもらい帰宅したが、疲れてぐっすり眠った。翌朝、女房が起こすと男は伸びをする。すると、手足が布団の外へ出た。

「稽古のおかげで体が大きくなった」

男が得意気に言うと女房が、

「当たり前だ。そりゃ座布団だよ」

次は、明治になってからの噺だ。

ある男、片眼だがおしゃれで義眼を入れていたが、それを隠して吉原へ行った。寝る前に考えた。義眼は開いたままだから相手の女を驚かせてしまう。義眼を枕元のコップに入れておいた。夜中に酔った隣の客が間違えて入り、コップの水をゴクリと飲んでしまった。

翌朝、家に帰っても腹の具合が悪いので医者へ行った。医者は診察してくれたが、首を傾げて言った。

「お腹の中に何か悪いものが入っているに違いない」

そう言って、長細い器具を持ち出し尻の穴をのぞいた。器具をのぞいていた医者が青くなってのけぞった。

「先生、どういたしました?」

「いや、尻の穴に睨(にら)まれたの初めてだ」

江戸時代には吉原や岡場所に行って梅毒にかかり鼻柱がやられた人が多かった。『鼻ほしい』『おかふい』などはそういう鼻欠けの人が出て来る噺だ。

『3人片輪』は、お金持ちだがセムシの若旦那を誘って吉原へ繰り込もうという噺だ。それには誘う側も片輪(かたわ)になったほうが若旦那が喜ぶだろう。そこでお供は梅毒とオシに化けたのだが、ついには化けの皮が剥(は)がれてしまう。

もう一つオシに化けたのが『オシの釣り』だ。与太郎が殺生禁断の池へ鯉釣りに出かけたが番人に掴(つか)まってしまう。同行の甚兵衛さんから教わった通りに、「親孝行のため」と言い訳をして許される。ところが師匠格の甚兵衛さんも掴(つか)まったが、慌(あわ)てたせいかことばがでない、咄嗟(とっさ)にオシの真似をする。これも手真似で親孝行のために釣りをしたと言って許されたが、とたんに、「ありがとうございます」とことばが出てしまった。これを聞いた番人は、「器用なオシだ。口を利いたぞ」

これらの噺から、鼻欠けやオシ、セムシに対して世間の蔑(さげす)みは感じない。健常者が障害者に化けるという感覚も、江戸の町が彼らを自然に包んでいたから生じたことで、むしろ今の東京ではありえない噺だ。

江戸小噺に『つんぼの親子』がある。

「せがれやあ。あそこを行くのは、横丁の甚兵衛さんじゃないかい」

「(耳に手を当て)ああん。お父つあん違うよ。ありゃあ、横丁の甚兵衛さんだよ」

「ほうかいほうかい。俺あまた、横丁の甚兵衛さんと思ったよ」

これは聾唖者というより、年のせいで耳が遠くなった父と若いのに難聴な息子をからかった小噺だが蔑みはなく、むしろ微笑ましい風景として描かれている。

(本文には差別用語として、現在は使用されないことばが出てきますが、当時使われていたまま使用しました。)

(ゆかわひろし 落語研究家、日本文芸家協会会員)


【文献】

・湯川博士(2008)『落語うんちく事典』河出文庫