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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年7月号

ADAが日本の障害分野に与えた影響

中西正司

はじめに

筆者は1985年に米国滞在中、ADAの成立に向けて全米を駆け回るジャスティン・ダート氏と面談している。彼はテキサスの石油王の息子で超保守派の共和党の支持者である。当時は同郷のブッシュパパの時代であり、私との面談中に電話が入り、「大統領から、すぐホワイトハウスに来るようにと連絡がきたので申し訳ないが失礼する」と言われた。ADAの詰めが始まっていたのである。

米国の障害者運動は、共和党にも民主党にもそれぞれの支持団体がいる。ADAは共和党の政権時に誕生している。そして、ダート氏と民主党支持者であるジュディ・ヒューマン氏(クリントン政権時の教育省特殊教育専門官、オバマ政権下で国務省の特別アドバイザー)とは密接な交友関係がある。

米国のこのような運動団体間の連携によって、どの政権になっても障害者問題は時の政権の主流の課題とされるようになっている。

我々日本の運動はこのことから多くを学んで、支援費制度の運動の時には全国障害者団体が統一した行動をとり、大きな成果を上げてきた。日本の障害者運動が成熟していく上では、ADAへの米国の障害者運動の取り組みモデルが大きな影響を与えているのである。

アクセス運動への影響

日本のバリアフリー法の成立は2000年である。実際に取り組みが始まったのは、1988年の新宿での第16回RI世界会議の中で開かれた障害者アクセス運動からである。

ADAの前身であるリハビリテーション法504条改正運動が米国で起こったのは1982年であるが、この運動は連邦政府の補助金の入った事業のすべてにおいて、障害者差別を行なってはならないという条項の実施を迫ったものである。この時の障害者運動は激しく、1週間にわたって政府のビルを数百人の障害者が占拠した映像が残っている(米国大使館より貸出可能)。

運動とはこのようにするものというお手本が示されたのが504条闘争であり、88年の新宿のアクセスデモの先頭を切ったのが、504条の障害者が教員になる権利を訴えたジュディ・ヒューマンであったのも印象深い。

ADAの実施において、一番最初に障害者運動から指摘されたのは、全米を走り回る長距離バスのグレイハウンドが車いす客の搭乗を拒否していることであった。バス会社としては、全車両に車いす用のリフトを設置すると1台500万円かかるので改造は難しいとのことで、法廷で争われることになったが、結局会社側が敗訴し、現在では車いす搭乗可能となっている。

日本のバリアフリー法が実施されてからもADAのような義務法ではないために、完璧ではない。地方の無人駅のアクセス化は遅れている。

しかし、運動面でみれば、米国の運動は日本に波及し、日本の運動が韓国やタイなどアジアの運動へと伝播していっているようである。今や世界の運動は波及性を持っている。

自立生活運動とADA

日本の自立生活運動は1986年に始まったが、これは1970年代に米国で起こったエド・ロバーツが始めた自立生活(IL)運動を継承している。

ADAの成立に向けて、米国の自立生活センターのリーダーたちが果たした役割は大きい。各地の障害者団体は各州の上院議員に対して猛烈なロビイングをした。ADAに賛成する議員の名前を公表したり、アンケート調査を議員に対して行なって、その賛否を問いかけたりした。ダート氏はこれらのリーダーを説得したり、ADAについて説明したりして全米に理解を広めていた。

重度障害者の地域での自立生活を支援する自立生活センターには数多くの情報が集まってくる。学校でのアクセス問題や入学拒否問題、公共機関のサービスの不備や不適切な対応、公共交通のアクセス問題、就職での差別などの改善にADAがどのような役割を果たすのかについて、センターでは重度障害者への説明会を開催していた。各州のリーダーはある意味有名人であり、政治家も熱心にその意見を聞いてくれて、ワシントンにADA支持の意向を伝えてくれるようになっていた。

現在でも、自立生活センターの関連組織には、ADA監視機関があり、常時障害者からの訴えを聞き、斡旋(あっせん)、調停、それでも駄目な時には訴訟に持ち込む支援をしている。

制度改革会議とADA

国連の障害者権利条約そのものはADAの理念と内容を後追いしたものになっている。その理由は「合理的配慮の欠如は差別である。」の規定がなければ、広く企業や交通機関を縛る法律が国家間で取り決める国際法として成立する余地はなかったであろう。

ADAの「機会の平等」という言葉は、権利条約では「他の者と平等」という言葉に発展解釈され、ADAで有資格障害者として労働権の保障を謳(うた)ったものは、権利法では、障害を理由とする差別という解釈へと発展している。

ADAで、裁判費用は勝訴した場合、連邦政府が負担するとの条項は、権利法ではモニタリング機関の設置を義務付けるという形で実っている。国内では障害者政策委員会がこの任を担っている。ADAの積極的是正措置も同じ文脈でとらえることができる。

ADAの国内への影響という観点で見直すと、まず、障害者の障害に対する姿勢や権利性が格段に高まったといえる。一般には、WHOのICFの医療モデルから社会モデルへの転換と言われるが実体としては、運動を伴って差別を具体的に解消してきたADAが社会モデルを生んできたと言えるのではなかろうか。

これに伴って社会の障害者を見る目も、態度も、1990年以降大きな変化をきたしてきた。以前は、駅にエレベーターをつくることは無駄な支出だと思われていたのが、必要な是正措置だと思われるようになったのは、ADAで一般企業がそれを受け入れたことが大きく影響していると言える。

ADAの個人への影響

合理的配慮という言葉を生み出したのは、米国の法律家集団DREADFである。日本でもこれに習って障害者支援弁護士グループが誕生している。現在では、介助サービスの支給決定に不満を持つ人たちが訴訟運動を行なっているが、このようなことはADAの下で全米で巻き起こっている数多くの訴訟事件に学んでいる点が大きい。

日本において、そもそも障害者が訴訟を起こしたというのはあまり例がない。生活保護をめぐっての朝日訴訟くらいしかなかったのが、今日では、施設での虐待問題や介助時間支給訴訟などが日常的に起こるようになってきた。権利意識が薄かった時代が長く続いてきた中で、アクセス運動を通じて、諦めないで要求を続けていけば、必ず実現するのだという確信をつかんだ障害者たちは、今、集団の運動から個人の要求運動へと運動の広がりを見せていることは事実である。

ADAと東京2020オリンピック・パラリンピック

ADAは2008年に改正され、その中で競技場などスタジアムでの車いす利用者とそのパートナーの座席の設置位置とそのスペースの取り方が細かく決まっており、日本ではこれまで全く考えられていなかったアイサイト(前列の観客が興奮して立ち上がったり、声援を送ったりすると、後列の車いす利用者は会場の様子が全く見えなくなること)を確保することが義務付けられており、車いす席は前列との高低差120センチメートルを確保することが義務付けられている。

この基準はオリンピック・パラリンピック招致委員会のアクセス要綱の中にも取り入れられ、日本で2020年に開催される東京オリンピック・パラリンピック招致委員会が計画する国立競技場の基本設計について、DPI日本会議などが要求をして、原案では200席しかなかった車いす席が800席に変わったり、2人乗りエレベーターが10人乗りエレベーターに設計変更されたり、アイサイトが確保されたために固定席が仮設席に変更されたりの設計変更が急遽なされた。このようなスタジアムや競技場での設計変更は、改正ADAがなければありえなかったことであろう。

差別解消法への影響

現在、障害者差別解消法の対応要領(行政機関が守るべき内容)と対応指針(各省庁が作成する民間企業への遵守義務を決めたもの)の作成が進められているが、障害者基本法においてすら、障害者差別を「でき得るかぎり」行なってはならないとの規定が入っており、差別解消法においても、行政機関を縛る対応要領においてさえ「でき得るかぎり」の言葉が入る可能性が残されている。まして対応指針については全く義務化がされず、ADAで議会を通すための妥協案として出された企業は、倒産に瀕するような過剰な負担になることを証明できた場合にのみ、その改善を行わないでもよいが、それに代わる「合理的配慮処置」を行わなければならない。というような対応指針ができると期待するのは難しいのであろうか。

ADAの前身であるリハビリテーション法504条の改正運動で争われたのは、「連邦政府が拠出する資金の受益団体や機関は、いかなる障害者差別も行なってはならない。」との条項であるが、全米の障害者が連邦政府ビルを占拠する1週間の行動にでたために、この条項は多くの問題を抱えながらも採択された。この下地があってADAにおいては、行政機関の障害者へのアクセスは完全に義務付けられており、交通機関など政府の補助金が少しでも入った企業は、基本的に障害者差別を禁止している現状が存在した。

教育機関の障害者への統合教育が日本では問題となっているが、政府資金で運営されているので当然、障害者を排除することは不可能である。日本で解決できないでいる問題の多くは、米国では504条改正の時点ですでに解決済みの問題であった。「対応要領」は504条の時点ですでに完全義務付けが終わっている。

日本の「対応指針」は米国のADAにあたる。対応指針の基本的姿勢は、ADAにおけるように「障害者差別を行なってはならない」が基本ベースとして冒頭に書かれている必要がある。その後で「過重な負担(企業が倒産するような)」がある場合には、やむを得ない措置として、それに代わる代替手段を用意する義務が発生する。と本文では規定すべきであり、これは対応指針に求められる最低限度の指針であろう。「対応指針」において、日本の法令の常套用語である「でき得るかぎり」がまたもや入ることになれば、ADAを学んだ日本の障害者から強い批判を受けるような結果となるので、法案作成当局は、ADAを十分に勉強していただきたい。

おわりに

ADAは、成立当時、日本の脳性麻痺者等の重度障害者から能力主義であると批判されることもあった。これは就労に関して「有資格障害者」という表現で非障害者と同等の能力がある者については、障害があるというだけで差別をすることができないという規定を行なったことに起源している。

しかし、現実にはADAができてから雇用の場で多くの訴訟事案が起こり、障害者雇用が進んだことは事実として評価すべきであろう。

ADAがなければ国連の権利条約はなかったし、日本における障害者過半数によって運営される政策委員会はありえなかったし、そこでなされた障害者基本法の医学モデルから社会モデルへの転換、51団体で構成された総合福祉部会の議論はなかったであろうし、差別解消法の成立はありえなかったという意味で、ADA再評価を当事者として行う時期にきていることは否定できないであろう。

(なかにししょうじ ヒューマンケア協会代表)