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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年8月号

春兆の俳句でつづる平和への思い

花田春兆

岩涼し人類反戦の古代文字

引き延ばした写真が横の壁からのぞき込んでいる。本誌の「文学やアートにおける日本の文化史」コーナーでもお馴染み、登山好きのカメラマンで古代人類文化史研究など、文献の鬼でもある関義男さん秘蔵の写真(2枚共)。巨大な岩などに刻まれて、長い年月の風雨にさらされながらも、生き抜いて健在の勇姿を見せている古代の動物たち。砂漠や大草原を悠々と駆けめぐる姿が思い浮かび想像の世界が広がる。古代、こうした絵は文字の代わりにコミュニケーション手段の一つだった。昨今の戦争・紛争による異民族交流や共存の証しでもあるこれら古代遺跡の破壊ニュースを見聞きするにつけこころが痛む。

想像を巡らせて、「戦争と障害者」の特集を重ね合わせているうちに、こんな途方もない一句が記憶の底から蘇(よみがえ)って浮かび上がってきた。

わが恩師中村草田男先生の一句。

いくさよあるな麦生に金貨天降るとも

たとえ金貨が降ってくるような世界になろうとも、戦争だけにはなってくれるな、という願いの一句。それに付けた私の一句。

戦絶えよと天上よりの涼しき声

草田男先生は僕の俳壇に関わるすべてを育ててくださった懐かしい先生。その先生とのご縁が、終戦後に深まっているのも妙な気がする。信州浅間高原の追分の野にあった花田家と先生の山荘は近距離にあった。先生は著書で「毎夏必ず清明な山気の中で相会うことも、ここ10年間の楽しい思出になっている」と記されている。

その頃のことを先生は、

天日無冠仰ぎて詞友と泉辺に

と詠んでいる。(註・春兆先生は、1957年中村草田男主宰の「萬緑」に参加、1963年俳人協会全国大会賞、「萬緑賞」を受賞)

忘れさすまじとや終戦の夜の銀河

この句のきっかけは、入居する麻布慶福苑の昼食のテーブルでの、担当の若い介護士さんの「あなた方はその日をどうやって迎えられたのですか」との問いかけの一言だった。

途端に、普段は無言の食卓に言葉が溢れ始めたのだ。

軍医見習い、徴用工、病弱による兵役免除と、三人三様でも、普通の応召兵がいなかったのは妙だが、迫る本土決戦の恐怖からの開放感と、負けたという屈辱感は見事に一致していた。

最後に僕の『句集 喜憂刻々』(2007年発行、文學の森)から。

夢になほ消し得ぬ戦火明け易し

金は褪せず銀は灼けずよ千羽鶴

(広島)


【プロフィール】

はなだしゅんちょう(本名・花田政国)。1925年(大正14年)10月生まれ、今年卒寿(90歳)。生まれつきの重度脳性マヒ。四肢マヒ、言語障害あり。1934年(昭和9年)東京市立光明学校入学。研究科修了。編集協力委員、編集委員として長く本誌に尽力される。日本障害者協議会(JD)顧問。俳人。著述家としてJDの機関誌や鉄道身障者協会「リハビリテーション」に連載を執筆中。身体障害同人誌「しののめ」を主宰。著書多数。現在は特別養護老人ホームに入居。