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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年8月号

私の沖縄戦体験

山田親幸

沖縄戦の概略としての『鉄の暴風』とは

『鉄の暴風』は、戦後初めて地元新聞人が分担し合って書いた沖縄戦についての図書名である。この頃では、沖縄戦は捨て石としての沖縄戦、本土決戦に備えるための時間稼ぎの沖縄戦であって、32軍は決して県土と住民を守るための沖縄守備軍ではなかったことが知られるようになった。

1945年の3月23日、1400隻の米艦船が沖縄本島を包囲して沖縄戦が開始、32軍が予想したか判(わか)らぬが、3日後の26日に慶良間(けらま)諸島に米軍は上陸、その後の4月1日に本島中部に上陸して戦闘が本格化、3日後に北進した一隊が島の最も細い部分で北部を分断して、4月9日には島の北端まで米軍は達した。一方、最大の飛行場を有した伊江島(いえしま)は4月21日に占領され、5月末には首里の32軍司令部が、10数万の住民が逃げ惑っている島の南部に後退、6月23日に32軍は崩壊、9月7日の残留日本軍首脳との間による降伏文書交換で終わった。陸海軍特攻隊による艦船への攻撃は、4月6日から行われた。この間私たち住民は、南部では、ひたすら夢遊病者にも似た彷徨(さまよい)、壕追い出し、弾雨の餌食(えじき)と恐怖に晒(さら)され、北部地元民と中南部からの計画疎開者は、飢えと米軍の襲撃に加えて敗残兵の食糧強奪やスパイ嫌疑の殺戮(さつりく)に怯(おび)える100日を強いられた。

私は名称新たな国民学校の1年生

私は、太平洋戦争が始まった1941年の4月、国民学校へ入学。視力0.3(実際は0.03)の生まれつきの弱視児だったので、教科書や黒板の板書は見えず、専(もっぱ)ら先生の話が勉強の総(すべ)てだった。週6時間に増えた体育、騎馬戦や棒倒し等、格闘技の増えた運動会や事前練習、食糧増産や戦死者遺家族の手伝い、校内の農作業、毎学期1回行われる山入り作業(薪(まき)取り)など苦手な活動が多く、学校に行くのが嫌な時がしばしばあった。

また私の眼は、左右の眼が非対象で白目が目立ったので「ソーミナー(めじろ)」とあだ名され苛(いじ)めにあうことも度々(たびたび)あったので、引っ込み思案になり、教室では最前列と決まってはいたが、「机の番人」のような存在感のない生徒だった。毎日、昼食後にある分列行進に引き続いて成される校長との1問1答で、「山田君!君は将来何になりたいか?」の問いに対して「はい!僕は陸軍大将に成ります」と答えたのが元で、級友に「目が悪いのに陸軍大将なんかに成れるものか!」と囃(はや)し立てられた時は悔しくてたまらなかった。

身近な私の9歳上の兄は、2歳の時の熱病が原因で右半身不随だったが、その兄は当時としては珍しく、県立中学に入学。障害者の兄1人だけが、健常な生徒に混じって、当時、どこの中学にも配属されていた配属将校の指導する教練や夜間行軍などを免除されることなくやり抜いて辛い思いをしたと思うが、そんな兄に対して親しき仲間の故か、教室で「おい!国家の米食い虫!ここまでちょっと来い!」と言われても、怒るのでなく「そうだよ僕は!国家の米食い虫だよ!」とおどけて見せ、わざと障害の状態を大袈裟(おおげさ)にヒョコヒョコ歩いて見せたというが、その時の兄の胸の内はどうだったろう?多分その夜兄は、布団の襟を涙で濡らしたに違いない。またその兄は、20歳の徴兵検査で赤紙(召集令状)が送られないいわゆる「丙種合格」の烙印を押されている。

このように障害者にとって辛い戦時下なのに、私や兄が戦争を憎み、また戦争反対を主張したかというと、事実は逆。精神的にはより強固な戦争協力者になったのである。因(ちな)みに私の場合、夏休みの宿題として防空訓練にも役立つメガホンを思い立って作成。それが国頭郡の展覧会で賞を受けたかどうかは知らないが、そのメガホンを群長が愛用していたことを父から聴いて大いに喜んだ。兄の場合は、下級生のために部屋を借りて勉強室を開き、盛んに進路指導、たとえば海軍兵学校、甲種予科練習生、陸軍士官学校、幼年学校への進学を盛んに奨(すす)めていた。

沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそ)
喜如嘉(きじょか)集落での避難生活

長姉は県立第三高等女学校生で看護補助員として動員されており、祖母、両親、6人の兄弟姉妹、それに従妹の親子11人が避難生活を共にした。避難の様子はまず、山麓の民家2部屋を借用、父が学校長だった関係で、学校のご真影や教育勅語などの重要書類と共に1週間避難、二度目は、マトゥガと呼ばれている里山の学校林の炭焼き窯を教室の仕切り戸を使って上下の低い2階にして11人が4日ほど夜露を凌(しの)いだが、ここでも米兵が出没するので3度目は、最も深い奥山ヤマンクビーの谷間に草葺の丸太小屋を村人に築かせて74日と、三度も住まいを移り変えた。その中で炭焼き窯の避難場所は、4日間とはいえ珍しかったに違いない。

避難中、最も困ったのは食糧だった。母は前年から非常時の食料品として味噌は勿論(もちろん)、大根や甘藷(さつま芋)の切干、葉野菜を茹でた乾燥野菜、イナゴのふりかけ、豚の肝臓を茹でてカチンカチンに乾燥させて鰹節状にしたもの、豚の脂肉から摘出したいわゆるラードやその搾(しぼ)り粕(かす)などいろいろ工夫して避難に備えたので、当初は良かったものの、後には配給されていた米はもとより、これら非常食品も心もとなくなり、ついにはソテツ、シダ類のゼンマイやヘゴ、蝉(せみ)やカエルなど食べられそうな物は何でも食べた。

因(ちな)みに沖縄では「ソテツ地獄」と称して、大正期末など飢饉(ききん)時に好んで食べたと称される毒のあるソテツ幹の前処理について記すと、次のようになる。幹の固い皮を山鉈(やまなた)で皮を除き、黄色っぽい幹を25センチ程度に切り、それをさらに板上にした物(集落ではケーラニー)を天日で2、3日乾し、それを水に2日ほど浸した物を最後に濡れたこもに包んで重石を置いて、発酵したところで味付けをして食べると良いが、そんな面倒な過程を待たずに乾かしただけのケーラニーを火に炙(あぶ)って食べようものなら、たちまち中毒し、間違えば中毒死しかねないのである。

10歳の私と7歳の妹にもこの上ない辛い仕事が課せられていた。それは従妹(いとこ)の2歳になる男の子を私が、妹は1歳になったばかりの末の妹を負(おぶ)って子守りをすることだった。いつも空腹の1歳と2歳の子どもを、これまた空腹な幼い少年と少女が、それも1時間や2時間ではなく、大人たちが食糧を求めてこの村からあの村へと、かつての母の教え子や仲良しの避難小屋を訪ねて僅(わず)かずつの食糧を求めたり、食べられる野草をティール(笊(ざる))に入れて持って帰るまでの時間を、泣かせないで子守りをするという大変な仕事。ある時には、これは妹にも明かさなかったが、日暮れ近くまで大人たちが帰って来ず、「もしや米兵に撃たれたり捕まったのでは」と脳裏に浮かび、もう居たたまれず、そんな時、山の上から「親幸!文子!」と声がした時には、ワーワーシクシク泣いて迎えたものだった。こんな生死彷徨う生活にも喜びや楽しみもあったが、誌幅が乏しいので「むすび」に移る。

ルーズベルト米大統領は太平洋戦争前年の年頭書簡で「貧困、欠乏、言論と信仰の自由は極めて重要なこと」と述べ、英国の哲学者バートランド・ラッセル氏は「戦争を起こすのは人間、戦争を止めさせるのも人間」と言っている。1981年の国際障害者年の理念と原則は「戦争が多くの人命を奪うだけでなく、多くの人々を傷つけて傷害を負わせ、また、障害者や老幼婦女子を死に追い込むものであることに思いを至すなら、国際障害者年やそれに次ぐ障害者の十年は、戦争を無くし、平和を希求する最良の機会としなければならない」と訴えており、私もその訴えを全面的に支持するものである。

(やまだしんこう 沖縄県視覚障害者福祉協会会長)