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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年10月号

3.11復興に向かって私たちは、今

震災を乗り越えて得たもの

鈴木政弘

14年前に社交不安障がい、うつ病を発症した私は仕事もできなくなり、ほとんど社会と関わることの無い生活をしていました。何度か就労支援施設に通いましたが、ひと月も続きませんでした。そんなことを繰り返しながらも、2011年1月から地域生活支援センターへと通い始めました。施設に通うよりも負担が少ないので、毎日家を出る習慣をつくったり、挨拶ができる人をつくったりすることで、少しでも社会に関わっていけるようにと思ったからでした。

あの大地震の時、私は自宅に居ました。響いてくる地鳴りが大きくなると、経験したことのない激しい揺れが家を揺らし、崩れるんじゃないかと思うほどでした。何度も余震が襲う中を消防団員の指示に従って高台の公園へと向い、あと少しというところで津波に襲われそうになりました。

バキバキと音を立てながら迫る水の壁に追いかけられて必死に階段を上り、何とか助かった時、公園から見たものは真っ黒な海でした。市役所やスーパー等の大きな建物が辛うじて見えるだけで、一面に浮かぶ柱らしき木材がひしめき合う光景、所々で火災が起き、黒い煙が上がる光景は、一生忘れることはできないでしょう。私の知っている町はどこにもありませんでした。

その後、公園に避難していたみんなで山の中を近くの中学校へ移動すると、体育館にはたくさんの人たちが避難していました。雪が降る中、体育館はとても寒くて、みんなでカーテンを体に巻いて夜を過ごしました。

避難所となった中学校には、全国からボランティアの人たちが訪れ、支援物資も続々と届きました。私たちは全国の人たちに支えられているのだと、とても感謝しながら過ごしました。

やがて避難所の自治会が立ち上がると、代表の「ボランティアに頼ってばかりではなく、自分たちのできることは自分たちでやろう」という言葉で、食事を作る人、支援物資の管理をする人、その他にも受付や水の管理など誰もが自分のできることをやり始めました。そして、私も何かをしたいと思い、食事の配膳を手伝うことにしました。

積極的に人と関わるのは病気になって以来、初めてでした。他人との会話はとても怖くて、満足に声を出すこともできなかったし、臨時でもらった薬が合わず呂律が回らなくなったこともありました。それでも続けられたのは、周りの人が私を受け入れてくれたからです。障がいがあることを知っても普通に接してくれて、同じような仕事を割りふってくれました。こんな私でもできることがあるのだと頑張れました。

それから避難所で2か月を過ごした後に、応急仮設住宅へ入居しました。その数か月後には、再び就労支援施設へ通い始め、今度は辞めること無く続けることができました。何度も体調を崩すことがありながら、前よりも積極的に人と関わり作業することができたのも、避難所での生活があったからだと思います。

施設では、販売の作業や施設外実習にも自分から参加をするようにしました。初めての実習は、自分で行くことを決めたのに、直前になって酷(ひど)く体調を崩して嘔吐したり、不安で眠れなくなったりしたのは悔しかったです。それでも初日を乗り越えてからは、実習先の職員と会話をしたり、いろいろな作業に自分からチャレンジしたりと積極的に動くことができました。

実習後は、より施設の作業に集中することができるようになり、一つ課題を乗り越えた分、さらに前に進むことができたのだと思います。

何度も実習や見学を繰り返し、2年ほど経過した後、同施設の就労移行支援事業へ移動をしました。それからはより気持ちを前向きに持ち、たとえ体調を崩しても仕事を休むことはほとんどなくなりました。

そして私は今年度、同施設の職員として就職することができました。自分の頑張りを認めてもらえたことはとてもうれしかったです。利用者の時とは違い、プレッシャーも責任も大きくなりましたが、とてもやりがいを感じています。

あの時、避難所で聞いた自治会の代表の言葉は、障がいの有無に関係の無いものでした。震災が残した傷はとても大きく苦しいものですが、その大変な状況の中で得たものは、私にとってとても大きな力になりました。あの時のことを忘れずに、どんな時でも力を合わせて生きていければ、障がいのある人でも、お年寄りや子どもでも、ここに暮らす誰にとっても住みやすい町になると思います。

私はこれまでの経験を活(い)かし、利用者にチャレンジすることの大切さ、そして、認められた時の喜びを知ってもらえるよう支援をしてゆきたいです。そうすることで自分の世界が広がり、より社会参加ができるようになっていくと思います。

震災は本当に辛かったし、まだまだ病気で苦しい時もあります。でも、私はこの先も震災を悲しい思い出としてとらえるだけではなく、強い力の源としながら障がいと向き合い、みんなと頑張っていきたいです。

(すずきまさひろ 多機能事業所あすなろホーム(陸前高田市))