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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2015年12月号

時代を読む 74

われら自身の声をあげよう・DPI日本会議の発足

DPI(障害者インターナショナル)日本会議が設立してから、30年が経とうとしています。この間の障害者権利条約の批准に向けて、内閣府に設置された障がい者制度改革推進会議などでの活躍は、政策を研究してきた当事者団体としての面目を発揮したと言っても過言でないでしょう。このDPI日本会議の設立までのいきさつを簡単に振り返ってみます。

1980年、カナダで開催されたリハビリテーションインターナショナル(RI)世界会議に参加した世界の障害者が、RI役員の過半数を障害者に指名すべきだと訴えました。まさに「私たち抜きに私たちのことを決めないで」でしたが、すげなく却下されてしまった。それならば、自分たちで国連非政府組織(NGO)を作ろうとの合意がなされ、翌1981年11月、シンガポールにてDPIの結成集会が行われました。この会議には日本からも25人ほどが参加しており、参加した仲間の話では、家族組織の加入を認めるべきかなどの討論が熱心に話されたと聞いています。

1982年から1983年にかけて、参議院議員だった八代英太氏が中心となってDPIを作る日本委員会世話人会が開かれ、個人加入組織か団体加入組織にするかなどの議論がかなり長い間討論されていました。

1984年7月に、DPI日本会議準備会が発足し、同10月7日に第1回DPI日本会議総会が開催されました。ただし、この時は正式発足とせず、さらに広範な「われら自身の声」を求めて加入団体を募るという形で、翌年度の総会にて発足することとなりました。

1986年3月30日、第2回の総会が開かれ、全国の30団体150人が参加して、DPI日本会議は正式に発足しました。

組織的には個人参加も認め(個人協議会を作り、その中で代表者を委員会に参加)、草の根の団体の参加を促すため、地方・地域団体枠も作り、上部団体を持たない団体も参加できるような組織にしました。全国組織については、障害連、全脊損、全障連、全国青い芝、全精連などが加入しました。

また、この頃、組織の性格を、サロン的な協議会か、何らかの政策を実現する運動団体的かの議論で抽象的議論となっていました。そういった状況の中で、当時のDPI日本会議事務局では、とりあえず加盟団体の大多数が同意できる活動として、「アクセスナウ」をスローガンとする交通行動を、行動するDPI日本会議の統一行動として、1988年東京で開催されたRI世界会議にあわせて街頭や鉄道への乗車行動などデモンストレーションを行なったことが、その後のDPI日本会議への結集力を培う最初の取り組みだったと感じています。

(八柳卓史(やつやなぎたくし) DPI障害者権利擁護センター)