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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年2月号

家族からの意見

「母」である前に「私」を取り戻す

福井公子

「ここは、どんな気持ちもあっていい場所です」。月1回の「おしゃべり会」は、この言葉から始める。知的・発達障害の子どもの親が中心だが、誰でも自由に参加できる。障害のある子の親が、子どものことだけでなく「一人の人間としての私」の感情を分かち合える場所として、7年前から開いてきた。

「健常な子の親が憎らしい」と言う若い母親や、「子どもが帰ってくる時間になると気分が重くなる」と語る60歳を超えた母親もいる。どんな気持ちも否定はしない。「わかるわ~」と言う仲間は必ずいる。「私」自身の正直な気持ちをどんどん吐き出すうちに、「私は私のままでいいのだ」という自信が湧いてくる。

知的障害のある成人の8割近くが家族と暮らしているという。この国の福祉は、親が面倒を看(み)ることが前提なのだ。今や、親の高齢化が抜き差しならぬ現実となっている。力尽きたら入所施設しかないと思っている親は今でもたくさんいる。まるで、障害がある子を産んだ自己責任をとるかのようだ。私たち親は、どうしてそんな貧しい福祉を許してきたのだろう。なぜ、親はモノ言わぬ人になってしまったのだろう。私はずっと考えてきた。そして、「母」である前に「私」を取り戻すことが大切なのではないかと思うようになった。

障害のある子を産むということは、「母」である前に「私」自身の傷つきでもある。自責の念に捉われる人も少なくない。しかし、私たちはその傷のケアをしないうちに、療育者として明るく前向きに生きることを求められる。子どものために、くよくよしてはいられないと自分自身にも言い聞かせる。泣くことも、「なぜ私が」と問うことも許されてはこなかった。いつの間にか「私」という主体をすっぽり置き去りにしてきたのかもしれない。

「母」である前に「私」の尊厳を回復すること。それは、私が年齢を重ねてやっと気がついた親への支援である。

早期療育に児童デイ。近頃の親の暮らしは確かに豊かになったように見えるが、商品化されたサービスは、親の主体的な子育てを奪ってはいないのか。家族支援さえも、専門家主導になってはいないのか。今も「私」が抑え込まれたままであることに変わりはない。

障害がある子の親が自らを肯定し、自信を回復するためのセルフヘルプ活動は、もっと重視されてもいいと私は思う。それはまた、障害当事者の支援を、社会の責務として押し出していく力にもなるはずだから。

(ふくいきみこ 阿波市手をつなぐ育成会会長)