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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年2月号

1000字提言

「大輔さん、本当にいいんですか?」

天畠大輔

「大輔さん、本当にいいんですか?」

「安心してください、本当にいいんです。」そう思わずAさんには言いたくなる時がある。

私は大学院の博士課程に在籍し、「発話困難な重度身体障がい者のコミュニケーション」について研究をしている。Aさんも私と同様、大学こそ別であれ、博士課程に在籍している両足が学問にどっぷりと浸かった、ヘルパーでありながら同志のような関係だ。しかし視覚にも障がいをもつ私と比べてみれば、読書量は圧倒的に彼の方が勝っており、情報量にも差が出てしまう。そのためか、論文執筆の介助時には私に対して「大輔さん、その主張でいいんですか?」「大輔さん、それは違うんじゃないですか?」「大輔さん、本当にこの表現でいいんですか?」と批判的なコメントを浴びせてくる。

そんなヘルパーは嫌だ。論文を書きたいのに、ヘルパーが私の主張に対して反論し、自分の考えをぶつけないでほしい。相談したくて、意見が聞きたくて介助をしてもらっているわけではない。自分が良いと思っているから、その主張をしているし、介助者に私は指示を出している。

私の指示や考えにしばしば、「大輔さん、本当にいいんですか?」と苦言するAさんのことを、実は心の底から倦厭(けんえん)しているわけではない。彼はヘルパーのあり方を私に考えさせてくれる、大切な存在であるとも思う。時に利用者の手足となって介助行為を行うことが、ヘルパーの仕事であると思われがちだが、果たしてそうなのだろうか。

論文執筆時のAさんを例に出したが、24時間介助の必要な私は、現在16人のヘルパーと共に日常を生きている。他の介助時に、私の指示に対して「大輔さん、本当にいいんですか?」と苦言するヘルパーも時折いる。利用者の心地のよい時間だけを提供することがヘルパーのあるべき姿なのだろうか。当然、社会は全員イエスマンではないし、社会が勝手にやってほしいことをすべてやってくれるわけではない。もし仮に、ヘルパーが全員イエスマンだとしたら利用者は裸の王様になってしまわないだろうか。

私自身、自分の心地よいところだけで甘えてはいないだろうかと悩むことがある。反面、私の生活が自己欺瞞とヘルパーにとっての自己満足にならないかと悩むこともあり、障がいをもってから今年で20年になるが、ヘルパーとの共生が不可欠の私の日常のスタイルでは、Aさんや他のヘルパーとの関係のあり方のジレンマに陥ることは不可避である。

今日も私は「大輔さん、本当にいいんですか?」という問いかけに心が揺らぐ。本当にいいんだろうか…と。


【プロフィール】

てんばただいすけ。発話困難なため、一文字ずつ私から言葉を紡ぎ出すやり方で、私の意思を確認する「あ、か、さ、た、な話法」という独自のコミュニケーション方法をとっている。また、平面の物が判読できないという視力の障がい、四肢麻痺をもっている。この原稿を書くにも、原稿の読み上げやパソコンの操作など、ヘルパーの手助けが必要である。