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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年4月号

「新心語り」の開発と実用化

小澤邦昭

1 はじめに

コミュニケーションは誰にとっても重要である。しかし、それを阻害する病気がある。たとえば筋萎縮性側索硬化症、通常、ALSと呼ばれ、運動神経が萎縮していく進行性の神経難病である。症状が進むと、呂律(ろれつ)が回らなくなり手足を動かすことができなくなる。これに伴い、会話も筆談も困難になる。呼吸もしにくくなり、人工呼吸器を着けると声帯に空気が通らず、通常、話すことができなくなる。目の動きは最後まで残りYes/Noの合図はできるが、なかにはその動きもなくなり、コミュニケーションが全く取れなくなることがある。これを完全閉じ込め状態とここでは呼ぶ(医学的な定義は別にある)。完全閉じ込め状態に陥った患者のためのYes/No意思伝達装置の開発に取り組み始めたのは全くの偶然であった。その経緯と製品開発および実用化について述べる。

2 ALS患者との出会い

ALS患者との最初の出会いは、1992年秋であった。その患者は、私の勤務していた株式会社日立製作所(以下、日立)の研究所で共に働いたことがある先輩(以下、Nさん)であった。「NさんがALSになった。コミュニケーションが不自由であり、支援をしてほしい」と研究所の当時の副所長から連絡があった。たまたま同年4月に私が研究所から事業部に異動し、障害者のコミュニケーション支援推進の立ち上げに取り組み始めていたからである。

連絡を受けて間もなく、Nさんをお見舞いに行った。「こんにちは」と声を掛けても返事がなく、笑いかけても笑顔が返ってこない。一瞬、凍りついた。状況が理解できなかったからである。ALSに関する予備知識もなく、コミュニケーションが取れない状況を初めて体験して、ALSに対して“許せない”と怒りを感じた。これが意思伝達装置開発の動機となった。

当時、私が取り組んでいたのは高齢者や障害者のための情報機器アクセシビリティ推進である。具体的には、主としてパソコンを対象として、身体が不自由であってもパソコンを使えるようにする取り組みである。たとえば、片手の不自由な方には同時打鍵できる機能を提供し、目の不自由な方に画面を読み上げる機能を提供する。ALS患者の意思伝達支援は当初の計画にはなかったが、副所長の依頼もあり、仕事として取り組むことが事業部で認可された。そして5年後の1997年12月に、意思伝達装置「伝の心」を製品化することができた。しかし、Nさんはすでに亡くなっており、お使いいただけなかった。

「伝の心」の基本機能は、ひらがなの五十音表の文字盤から文字を選択することである。パソコン画面に表示された五十音表の上をカーソルが自動的に動いていき、カーソルが患者の望みの文字に移動したときに、スイッチを押してその文字を専用の文章作成ソフトに取り組む。漢字変換もできるしテレビ等電化製品の操作もでき、インターネット閲覧や電子メールもスイッチ操作でできる。今でも多くのALS患者に使われている。

3 完全閉じ込め状態について

完全閉じ込め状態まで進行する患者は少ない。人工呼吸器を着けた患者の約10%程度が、完全閉じ込め状態になる、と言われている。日本ではALS患者は9950人いる(平成26年末現在)。人工呼吸器を着けるのは、そのうち約3割の3000人であり、その10%が完全閉じ込め状態になるとすると、約300人程度の患者が完全閉じ込め状態になる。

完全閉じ込め状態の患者に私が最初に会ったのは、「伝の心」のデモを依頼されて、ある病院に試作装置を持参して出かけた時である。スイッチとして、磁気センサーを使用した。磁石を眉の上あたりに貼り付けて、眉を上げると磁石も移動するので微かな磁場変化が起こり、それを検知するセンサーである。この患者に磁石を貼り付けて、文字を選択していただこうとしたが、磁石はピクリとも動かなかった。病院関係者によると、「ご家族は患者とコミュニケーションが取れるならばお金はいくら払ってもよいと希望されている」とのこと。「伝の心」が使えない現実を目の当たりにして、さりとてそれに代わる装置も世の中にはなく(1997年当時)、無力感を覚えた。

その後、完全閉じ込め状態の患者が使える機能として、脳活動と肛門の括約筋(かつやくきん)があることが分かった。そのような時に(1999年)、ある患者のご主人から「自分の介護がよいのかどうか、Yes/Noだけでよいので妻の返事が聞きたい」とのご要望をいただいた。たまたま社内研究所で、近赤外光を利用して脳活動を計測する研究を進めていたので、伊藤嘉敏主任研究員(当時)の設計で、「脳活動を利用して患者のYes/Noを判定する装置」の試作を1999年に開始した。この試作装置を「心語り」と名づけた。

4 「心語り」の製品化

「心語り」は1999年に研究を始めてから、なかなか製品化できなかった。一つは正答率の問題があったが、これは研究にご協力いただいた東京女子大学内藤正美教授(当時)のアイデアで解決の見通しがあった1)。もう一つの問題は、ユーザごとに正答率の異なる「心語り」のような製品を、私の所属する事業部では製品化する文化がなかったことである。事業部長(当時)の判断で、「心語り」の試作装置製作を担当したエクセル・オブ・メカトロニクス株式会社(以下、エクセル)に製品化の打診をすることになった。エクセルが製品化を引き受けなければ、「心語り」製品化を諦(あきら)めざるを得ない状況であった。

2003年9月9日、胸をドキドキさせながらエクセルに向かった。恐る恐る製品化のお願いをしたところ、金澤恒雄社長は即座に製品化を決断していただいた。「儲けにはならないけれど、世のため人のためにやりましょう」と今でもその言葉が耳に残っている。これをきっかけに研究開発も進み、2005年4月、日本ALS協会(以下、協会)の金澤公明事務局長のご支援により、協会内に「心語り製品化推進プロジェクト」を設けていただいた。協会からは柳田憲佑理事(当時)にご参加いただいた。開発関係者(日立、東京女子大学、エクセル、協会)が一堂に会して一気に製品化を進め、2005年12月にエクセルが製品化した。10年間で100人以上の患者さんに使われた。「心語り」が実際に使われる様子が映像で見られる2)

5 「心語り」から「新心語り」へ

2012年3月末で39年間勤務の日立を退職した。私の退職後の進路は自ずと決まった。すなわち、退職後は「心語り」の改良研究をしようと決意した。決意の背景は次の通りである。

1.患者とそのご家族は「心語り」のような意思伝達装置を切実に望まれていることが分かっていた、2.日立の幹部の中には「心語り」の意義を積極的に理解して、足を向けては寝られないほどの手厚い支援をいただいた。また、事業部にアクセシビリティ推進室(以下、アセ推、初代は徳永赳室長)を設立して私をこの世界に導いていただいた方々にも大変にお世話になった。これらの幹部やアセ推のメンバーの志を引き継ぎたかった、3.研究すればもっと「心語り」を良くできるという自負と希望があった、等である。

具体的には2012年5月から「心語り」の正答率向上研究を東京女子大学内藤研究室で研究員として始め、2014年4月に内藤先生と共に東洋大に移って客員研究員となり、光トポグラフィー等による脳活動の研究を行なっている生体医工学科田中尚樹教授の研究室で、研究を継続中である(以下、小澤・内藤・田中を東洋大チームと呼ぶ)。

2012年5月からの研究成果を基に、NEDO(古川一夫理事長)の「平成26年度福祉用具実用化開発推進事業」にエクセルが「心語り」の改良を応募し採択された。東洋大チームは研究協力者として参加した。NEDOの試作装置は「新心語り」として、2015年10月にエクセルから製品化された(2016年3月に「新心語り」はエクセルからダブル技研株式会社に製品移管された)。

「新心語り」は、2016年4月1日からは給付対象製品として厚労省に認定される見通しである。

6 「新心語り」の概要

「新心語り」の概要を写真1に示す。「新心語り」の装置は1.プローブ、2.信号処理装置、3.“Yes/No”判定プログラムを組み込んだパソコンからなる。答えの明らかな質問をして正答率を求める試験データ測定画面を図1に示す。画面の左上の測定波形は“No”と判定された。この回答は被験者の意図と同じである。画面の右段の○を見ると、「右額」と「No回答」が選択されているからである。この回答は、画面下段の「右額モデル」の散布図に△3として示されている。3はNo回答の3番目である。同様に、Yes回答は◆1のように表示される。試験データの正答率は画面の最下段に示されている。左右額の正答率はそれぞれ100%、67%である。正答率の良い額を選んで(このケースでは左額選択)、リアルな質問(答えの分からない質問)をして患者の答えを聞く(試験データ測定画面とは別の画面で測定)。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真1・図1はウェブには掲載しておりません。

ALS患者18人を対象に「新心語り」の実証実験を2015年3月~9月に実施した。平均正答率は80.5%であり、「心語り」よりも正答率が約20%向上した3)

7 おわりに

「新心語り」は、今後、正答率向上の研究を続けるとともに、新しい挑戦を試みている。一つは五十音表から文字を選択する試みである。もう一つは意識障害者の意識の有無を判定することである。多くの方々に支えられて育ってきた「新心語り」を、必要とするすべての方々に満足して使っていただけるように、今後も進化させ続ける予定である。

(おざわくにあき 東洋大学工業技術研究所)


【参考文献】

1)M. Naito et al., A Communication Means for Totally Locked-in ALS Patients Based on Changes in Cerebral Blood Volume Measured with Near-Infrared Light, IEICE Trans. Inf. & Syst., E90-D, 1028-1037, 2007.

2)Hitachi Theater 難病患者の心をつなぐテクノロジー、「心語り」開発物語
http://www.film.hitachi.jp/movie/movie754.html

3)小澤邦昭、内藤正美、田中尚樹、他「ALS患者のYes/No意思伝達装置における正答率向上の分析」『信学技法』、WIT2015-48(2015-10)、1-6、2015