「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年4月号
フォーラム2016
公開講座「東アジアにおける障害者権利条約実施と市民社会」報告
―平和と人権
長瀬修
日本は障害者権利条約(以下、条約)の第1回報告を国連の障害者権利委員会に提出する最終段階にある。同じ東アジアにおいてすでに審査を終えた中国、香港、韓国、モンゴルそして独自の取り組みを進めている台湾から障害者組織を含む市民社会の代表を招聘して、2016年2月20日、21日に公開講座「東アジアにおける障害者権利条約実施と市民社会」という国際会議を東京大学で開催した。主催は「社会的障害の経済理論」(REASE(リース))」(研究代表者:東京大学教授松井彰彦(まついあきひこ))、「障害者の権利条約の実施過程に関する研究」(研究代表者:長瀬修(ながせおさむ))である。
背景―日中の市民社会の交流
2012年6月末に中国障害者連合会が主催し、北京で開催された障害と社会保障に関する国際会議に出席する機会を得た。その会議で驚きだったのは、研究者が圧倒的多数を占めていたこの会議に、障害者が少数ながら参加し、「私たち抜きで私たちのことを決めないで」(Nothing about us without us)を主張していたことだった。それまで、中国の障害者からそうした主張を聞く機会はなかっただけに、新鮮な驚きだった。
その後、ただでさえ不安定な日中関係に、さらに不吉な展開があった。同年9月に、石原慎太郎東京都知事の動きに端を発した、野田佳彦(のだよしひこ)政権による尖閣諸島の国有化を機に日中の関係は一気に悪化したのである。現在に続く、中国公船による尖閣諸島周辺への領海侵犯が開始された。1989年の東西冷戦終結以降感じたことがなかった戦争の危機を感じた。いや、冷戦中以上の危機感だった。尖閣諸島の上空や周辺海域で日中の偶発的軍事衝突があり、仮に日中どちらか、もしくは両方で死傷者が出た場合、当事国の世論は沸騰するに違いない。残念ながらそうした事態はすでに「想定外」ではない時代に私たちは生きている。
平和のために自分は何ができるのか考えた。そこで、自分にとって身近な障害分野での日中の市民社会での交流と連携を進めたいと思った。REASEの研究代表者である松井に相談したところ、全面的な賛同を得た。そして中国の市民社会から3人を招聘し、開催したのが、2013年1月のREASE公開講座「難病(希少性・難治性疾患)と障害―中国の市民社会の取組」だった。
同年11月には、別の3人を招聘し、REASE公開講座「障害者の権利条約の実施と中国の市民社会」を東京大学で開催した。日本障害フォーラム(JDF)との交流会も実現した。さらに、翌2014年10月には第3波として、3人を招聘して第11回障害学会沖縄大会プレ企画として、「東アジアの障害学の展望―中国・沖縄・日本」を沖縄国際大学で開催した。こうした経験から、中国の多様性を実感できたのは大きな収穫だった。
なぜ東アジア、市民社会か
障害分野の日本の市民社会にとって希薄だった中国の市民社会とのこうした交流、連携を基盤として東アジアに拡大したのが、今回の東アジア公開講座である。残念ながら東アジアで政治的、軍事的に緊張関係にあるのは日中だけではない。核開発を継続する北朝鮮とその近隣諸国、台湾海峡をはさんで対峙する中国と台湾が具体例である。
その東アジアで、すでに条約審査を終えているのは中国、香港、マカオ、韓国、モンゴルである。台湾は国連加盟国ではないため、独自の「批准」を行い、審査の準備を進めている。日本はご承知のように、一昨年2014年に批准を行い、本稿執筆時点で政府は第1回報告提出の最終段階にある。東アジアで残る北朝鮮は2013年7月に署名を行なっている。
障害者を含む市民社会は、障害者権利条約の実施過程でも大きな役割がある。国内における実施及び監視に関する条約第33条は「市民社会(特に、障害者及び障害者を代表する団体)は、監視の過程に十分に関与し、かつ、参加する」ことを規定している。「私たちを抜きにして私たちのことを決めないで」を訴え、条約の策定に大きな役割を果たした障害者組織をはじめとする市民社会は、条約の実施、監視にも大きな役割が期待されている。
政治的、軍事的緊張に満ちた東アジアにおいてこそ、障害者をはじめとする市民社会の連携による平和、開発、人権の促進は欠かせない。すべての人のすべての人権の実現に、障害者権利条約の実施を通じて障害者の人権を守ることで貢献したいという思いから、私たちはこの講座を企画した。
具体的には、公開講座を通して1.東アジア各地域での障害者権利条約実施の市民社会の経験の共有、2.障害者組織をはじめとする東アジアの市民社会のネットワークの強化、の2つを目的とした。
プログラム概要
はじめに前障害者権利委員会委員長であり、中国、香港の審査の際には委員長を務めていたロン・マッカラム(オーストラリア)のビデオメッセージを上映した。女性差別撤廃委員会委員長林陽子(はやしようこ)は、ジュネーブで開催中の同委員会のため出席できず、障害女性の複合差別や、両委員会の連携の重要性についてのメッセージを寄せた。
次に、市民社会をテーマとする本公開講座で唯一の政府からの報告として、日本の外務省人権人道課課長である中田昌宏(なかたまさひろ)から日本の第1回政府報告の取り組みに関する報告があった。
総合司会を務めた私は、趣旨説明とプログラム全体のオリエンテーションを行い、条約実施の国際的課題や、障害者権利委員会の歩みの説明をした。
条約の実施と関連する国際的な市民社会の2つの試みとして、アジア太平洋での障害者人権保障の構想であるアジア太平洋障害者人権審査機関(DRTAP)について、東京アドヴォカシー法律事務所所長である池原毅和(いけはらよしかず)、オーストリアに本拠を置き、条約実施のための先進的政策・事例を表彰しているゼロプロジェクトの日本代表のアメリー・サウプから紹介があった。
ここからは東アジア6か国・地域市民社会の立場から、審査を受けた順にそれぞれの報告を得た。各国・地域の批准等の時期に関しては表を参照してほしい。
表
中国・香港 | 韓国 | モンゴル | 日本 | |
---|---|---|---|---|
署名 | 2007年3月 | 2007年3月 | 無 | 2007年9月 |
批准 | 2008年8月 | 2008年12月 | 2009年5月 | 2014年1月 |
第1回政府報告締め切り | 2010年8月 | 2011年1月 | 2011年6月 | 2016年2月 |
第1回政府報告提出 | 2010年8月 | 2011年6月 | 2012年2月 | 未 |
事前質問事項 公表 | 2012年5月 | 2014年5月 | 2014年10月 | 未 |
建設的対話実施 | 2012年9月 | 2014年9月 | 2015年4月 | 未 |
総括所見公表 | 2012年10月 | 2014年10月 | 2015年4月 | 未 |
中国(座長はアジア経済研究所・小林昌之)はワンプラスワンという草の根の障害者組織職員の傅高山(フーガオシャン)と、中国知的発達障害ネットワーク事務総長の宋頌(ソンソン)が報告した。ワンプラスワンは、国際障害同盟が香港で開催したワークショップに参加し、そこで得た知識をもとにシャドーレポートを作成し、障害者権利委員会に提出している。政治状況により、実際にジュネーブに入っての活動は可能ではなかった。シャドーレポートの大きな目的は、「越えてはならない一線を探ること」だったとした。
香港(座長は名古屋大学・後藤悠里)は、ピープルファースト香港であるチョーズンパワーから役員である周徳雄(チョウタクフン)と陳俊傑(チェンチュウチエ)が支援者・通訳者と共に参加した。他の海外講師は英語で話したが、この2人は広東語で話し、それを支援者が英語に訳した。チョーズンパワーは私が知る限り、条約実施・監視過程に最も積極的に取り組んできた知的・発達障害者グループである。彼らの報告は非常にパワフルで、音楽とともにフロアから踊りだすところから始まり、会場を圧倒した。チョーズンパワーは条約のロビー活動でのジュネーブ訪問以降も、子どもの権利条約や女性差別撤廃条約等の他条約のロビー活動で毎年、ジュネーブで活動を続けている。一国2制度化の香港と知的障害者の共通性は、どちらも理解されず、いつも後回しにされてしまっている点だという鋭い指摘は胸に響いた。
韓国(座長はDPI日本会議・崔栄繁)からは、韓国障害者権利条約実施連帯事務総長の李錫九(イソック)を招いた。李は条約交渉以来のすべての過程に携わっている立場から、包括的な韓国の障害者運動の取り組みについて報告を行なった。韓国の市民社会の取り組みは本当に力強く、一つの模範となるものだと感じた。
モンゴル(座長は国際協力機構・合澤栄美)は、ユニバーサルプログレス自立生活センター所長のチョロンダワ・オンダラフバヤールが報告を行なった。モンゴルの障害者運動は海外のNGOや米国政府など外国の支援を積極的に受けて条約実施に取り組んできている点、また、条約実施の過程で障害者組織の国内的連携が強化されている点が印象的だった。
台湾(座長は東京大学大学院総合文化研究科・上野俊行)はまず、研究者である国立台北大学准教授の張恒豪(チャンヘンハオ)から、国連加盟国ではない環境下で、2014年8月に成立した障害者権利条約施行法に基づいて条約の実施をどのように進めようとしているのかという概括的な説明があった。次に、障害者リーダーである台湾障害者権利協会事務次長の張恵美(チャンホエメイ)から、障害者組織としてどのように条約実施に取り組んでいるのか、とても興味深い報告があった。台湾は2017年には海外の専門家を招聘し、台北で審査を行う予定である。
日本からは、日本障害フォーラム幹事会議長の藤井克徳(ふじいかつのり)と政策委員会委員長の石川准(いしかわじゅん)が報告を行なった点だけ紙幅の都合で記す。
公開講座のサイト(「REASE東アジア」で検索)には、当日配布資料を掲載してあるので、関心のある方はぜひ、閲覧いただきたい。
東アジアの市民社会ネットワーク
最後のパネルディスカッションでは、こうした東アジアでの共有の場の重要性を指摘し、継続を求める声が複数上がり、心強く感じた。
障害者権利条約という共通の枠組みを本当にありがたく思う。そして、私が改めて痛感したのは、障害者運動を含む市民社会が活動できる空間が東アジアの各国・地域によって本当に異なっていることである。障害者運動の力で、政府の条約批准の動きを阻止すらできる国もあれば、ジュネーブに赴いて自国の実情を訴えることが政治的に大きなリスクとなる国もある。台湾のひまわり学生運動と香港の雨傘運動が心をよぎる。そして、北朝鮮の障害者の不在が辛かった。
障害者運動を含む市民社会が持っている社会的スペース、つまり自由がそれぞれの国・地域にどれだけあるのか、そして市民社会がそれをどのように活(い)かしているのか、活かそうとしているのかが、障害者権利条約の実施においても問われていると感じた。
本年9月22日、23日に立命館大学で東アジアを対象とする第7回障害学国際セミナーを開催し、法的能力に関する条約の第12条の議論を韓国、中国、台湾の市民社会の代表と交わす。こうした機会も、この東アジアの国際会議の取り組みを継続し、市民社会のネットワークを強化する試みである。
(敬称略)
(ながせおさむ 立命館大学生存学研究センター特別招聘教授)
*本研究はJSPS科研費「障害者の権利条約の実施過程に関する研究:研究代表者長瀬修」(25380717)及び「社会的障害の経済理論:研究代表者松井彰彦」(24223002)の助成を受けた。記して謝す。