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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年5月号

3.11復興に向かって私たちは、今

5年目を迎えた3.11
―自分らしく生きることを大切にするために

小野和佳

2016年3月、私は神奈川県内で「東日本大震災の経験談」を語る講演会でお話をさせていただきました。講演の冒頭「皆さん、3.11は何時何分に地震があったか覚えていますか?」と聞いてみると、答えられる人が60人中2人しかいませんでした。このことを知った時、5年の月日が流れたという実感がこみ上げてきました。「震災が起きた時間よりも大事なことがある」と思われる方も多いことでしょう。自分の家が流されている、家族を亡くしてしまった、無傷の家があるのに住むことができない。そんな光景が焼き付いている被災者は多いはずです。3.11で被災をしなかった皆さん。5年経った今、皆さんの心には何が残っていますか。

東日本大震災後、私の生活が大きく変わったのは、2012年8月でした。JDF被災地障がい者支援センターふくしまが、神奈川県相模原市に「サテライト自立生活センター(以下、サテライト)」を設置しました。私は、このサテライトで2012年から生活を始めました。当時、主に肢体不自由の人たちの共同生活の場として使われていたこの場所には部屋が4つあり、トイレやお風呂なども使いやすいものでした。

私と一緒にサテライトで生活することを決めた仲間との生活が始まりました。しかし、私たちが生活を始めて以降、サテライトの利用が今一つ増えません。これにはいろいろな理由があったのではないかと思っています。その理由を私の中で振り返ってみると、一番には、原発付近で生活をしていて、本当に居住の場に困っている障害者に出会えていなかった。このことが大きかったのではないでしょうか。生活はできているというのが前提にあると、原発事故のリスクの受け止め方が個人個人変わってきます。住み慣れた地元で生活が続けられるのであれば、生活環境を変えることにたくさんの準備が必要な障害者にとって、サテライトを利用することは、簡単なことではなかったのかもしれません。「サテライトをどのようにしていこう」という声から「小野君は元気かな?」「今何してるの?」と周りの声が変わるころ、サテライトの活動は終了を迎えました。

サテライトの終了後、私は福島に戻るか、戻らないかという判断をする必要がありました。私は、神奈川に残って生活を続けることにしました。福島の復興に向けた活動をするには、福島に戻ることが一番なのかもしれない、そうも思いました。実際、私がサテライトで生活した1年間、私は何もできていません。でも、自分には「選択肢」がたくさんあることに感謝して、どう生きていきたいかを大切にしようと決めました。

福島には震災により自分の生き方の選択肢を奪われてしまった人がたくさんいます。その一方、自らその選択肢に目を伏せる人たちもいるのではないでしょうか。

福島に「戻る」、「戻らない」という基準ではなく、「生活環境を変えてみる」という気持ちで生活してみると、新しい出会いがあり、新しいことを知り、そして、福島に必要な何かに気づけることもあると思うのです。

神奈川県で生活を続けることにした私は、震災の経験を各地でお話しする機会をもらっています。最近、私は震災の経験の他に私たちの日常生活での「生活のしづらさ」をたくさん知ってもらいたいと伝えています。それは重度の障害がある人に限りません。普段、お手洗いを自分で使用できていた私の仲間が震災の影響で一時避難所に避難しましたが、半日も経たないうちに自宅に戻ったそうです。理由は、避難所のお手洗いが洋式ではなく、和式だったために、自分で使用できなかったそうです。

災害が起きた時に重要になってくるのは、日頃からの地域のつながりと言われています。「障害」を知ってもらうことよりも、私たちが「困っていること」を具体的に伝えていくことで、距離感を縮めることができるのではと考えました。

私たち抜きに私たちのことを決めないでほしい。さらに、私たちの思いをどのように伝えれば地域の皆さんに届くか、という視点が大切になるということを各地でお話しさせてもらうことで、実感できました。仮設住宅の入り口にスロープが無くて困っている。それを障害当事者団体に伝えれば、「共感」を得ることはできます。そこから、誰にどのように伝えていくか。これからはそれを考えて活動していくことが、重要だと感じています。

困っていることを「伝える」ということは、ものすごく勇気と力がいることですが、伝える方法や伝える相手もそれぞれが考える相手で良いのではないでしょうか。行政にスロープを設置するよう求めるのか、地域の人たちに手伝いをお願いするのか。それぞれが伝えやすい相手に伝えることから始まるのではないでしょうか。

また、困っていることを伝えられる環境や雰囲気づくりも災害時には必要です。「自分自身のことは自分で声を上げていく」。災害時にはそれが難しくなることも経験しました。「みんなが困っているんだから自分だけ助けてもらうのは申し訳ない」そのように思う人も少なくありません。

2016年、私は現在も神奈川県で生活しています。今でも福島出身と伝えると「福島大変でしたね」と言われます。私より大変な人たちはたくさんいますが、私もこの言葉は少し辛いです。春にはお花見の話をし、夏には海水浴の話をする。そんな何気ない会話ができる日が近づくよう頑張りたいと思います。

(おのかずよし 神奈川県在住)