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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年6月号

ワールドナウ

ASIA TRY in Nepal
~楽しんでネパールをバリアフリーな社会に変えちゃおう!~

数矢雄

脳性まひ27歳、ネパールでの1か月修行。陽気なネパール人たちとの出会いが、私を変えてくれた。

メインストリーム協会には、「スタッフ修行研修」という一風変わった研修がある。この研修は、私たちが支援しているアジアの自立生活センターに1か月~2か月間滞在し、自立生活センターの活動を盛り上げる。しかも、修行研修中は現地の介助者を使う。

私は2月中旬から1か月間、ネパールの首都カトマンズにある自立生活センター「CILカトマンズ」に寝泊まりしていたが、毎日が日本では経験できないことの連続であった。

ネパールはとにかく貧乏な国で、停電は頻繁にあるし、シャワーからお湯は出ない上にすごく濁っている。私が修行研修していた時期は、平均気温が昼間でも20度ぐらいだったので、シャワーに入るたび死にそうだった(写真1)。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真1はウェブには掲載しておりません。

私が修行研修していた間の、3月9日~12日で「ASIA TRY in Nepal」が行われた。

「ASIA TRY」は、1986年、メインストリーム協会がまだできていない頃に始まった。当時、鉄道は障害者にはとても使いづらいものだった。この状況を変えるために、若者が10年間、車椅子で大阪―東京間を歩き、野宿しながら鉄道のバリアフリーを訴えてきた。笑いあり涙あり悪臭ありのワクワクドキドキの旅、それがTRYである。

2007年の夏、そんなTRYが「ASIA TRY」として生まれ変わり、海を渡った。第1号の韓国を皮切りに、台湾、モンゴルの3か国で開催された。「ASIA TRY」はアジアのどこに住んでいても、誰もが暮らしやすい社会を作るためにバリアフリーや障害者の権利を訴えながら活動を続けている。

今回の「ASIA TRY」の目的は、主に「アクセスをバリアフリーに変える」「障害者の法律を作る」「障害者の考え方を変える」「コミュニケーションのバリアフリー」の4つだった。

日本では、私は介助制度を使いバリアフリーが整った街で、当たり前に買い物に行ったりスポーツ観戦に行ったり、毎晩のように飲みに行ったりできている。一方、ネパールの多くの重度障害者は親元や施設で暮らし、「自立生活をして、自由に遊びに行きたい!」という気持ちがあっても、当然のように街中はバリアだらけ、介助制度がないために自立生活ができない状況だ。

私がネパールでとても仲良くなった重度脳性まひのA君(20代前半)は、自立生活をしたいという気持ちは誰よりもあるが、現在は母親の介助を受けて生活をしている。自立生活センターの活動にも深く関わりたいようだが、今のネパールの状況で自立は難しく、彼の思い通りの生活はできない。

このようなネパールの状況を変えるためにも、まずは「ASIA TRY」でネパールの老若男女に障害者のことや自立生活を伝えていく必要があった。加えて、2015年4月にネパール大地震が発生したこともあり、ネパールがバリアフリーな社会に変わる最大のチャンスも来ていた。

私の修行研修のミッションは「ASIA TRY in Nepal」の準備を手伝い、盛り上げることだった。CILカトマンズのメンバーが運転するバイクにまたがって資金集めを手伝ったり、「ASIA TRY!頑張りましょう!!」という日本語のフレーズを教えて参加者を盛り上げた。また、参加者や学生ボランティアたちとの関係づくりのために毎日のように食事会を開いていた。

ネパールでの修行研修や「ASIA TRY」の準備段階で一番苦労したのが、やはり私の言語障害だった。現地の介助者に指示するだけでも最初はとても大変で、お茶を飲むのに15分ぐらいかかってしまった。そのこと以上に悪戦苦闘したのが、TRYの参加者との会話だった。

CILカトマンズの事務所には「ASIA TRY」の準備の手伝いに、毎日のように多くの学生ボランティアが出入りをしていた。彼らを盛り上げ、関係を作るために、初対面の学生さんにカタコトの英語や指差し会話帳を駆使して会話を試みるが、当然のように言語障害バリバリの英語は通じないし、指差し会話帳は緊張でぐっちゃぐっちゃになるし、最初のあいさつと自己紹介で名前を言うだけで日が暮れそうだった。でも、たくさんの人たちとめげずに会話をしていたら、CILカトマンズのメンバーや学生ボランティアたちも慣れてきたようで、修行研修が終わる頃には私の通訳をしてくれるまでになった。

ネパールでの生活を楽しく過ごしていたが、「ASIA TRY」直前にアクシデントがあった。冷たいシャワーを浴びていた時に片目をケガしてしまったのだ。病院に行くと眼帯をすることになり、片方の目は完全に使えなくなった。何もないネパールだし、片目しか見えないし、夜になると停電で余計に見えなくなるし、気持ちが落ち込んでいった。加えて、暗いところがとても苦手な私は、真夜中に一人で寝ていると本当に不安で「早く、日本に帰りたい!」と思うほどであった。

そんな落ち込んでいる私を見て、ある日、CILカトマンズのメンバーたちが料理を振る舞ってくれ、「元気を出して!」と励ましてくれた。私がネパールの人たちを盛り上げに修行研修に来ているのに、逆に元気をもらった。ネパール人の優しさに涙が出るほど感動し、この出来事は修行研修で一番の印象に残った。

このようにCILカトマンズのメンバーに元気をもらいやる気がどんどんと湧いてきて、弱気になっていた私も「ASIA TRYを絶対に成功させてやる!」と強い気持ちになっていた。気が付くと、ネパールでの「ASIA TRY」はインド、バングラデシュ、パキスタン、モンゴル、カンボジアや日本のアジア各国から応援が集まり、参加者が総勢約300人というメガイベントになっていた(写真2)。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真2はウェブには掲載しておりません。

「ASIA TRY in Nepal」は学校や廃病院等に宿泊しながら、首都カトマンズの中心部に向けて1日約10キロずつ歩くチームと、カトマンズ市内で行政やマスコミに交渉を行うチームの全6チームに分かれ、バリアフリーな社会の実現を多くの人にアピールした。

「ASIA TRY」の活動を一般市民にも知ってもらうためにシュプレヒコールを声が枯れるまで叫び、ビラを配りながら歩いた。日本ではビラさえ取ってくれないことが多いが、ネパールの人たちは私たちの訴えに耳を傾け、ためらいもなくビラを受け取ってくれた。

私はカトマンズ市内で交渉するチーム(通称アドボカシーチーム)で活動をしていた。アドボカシーチームは、日本で言えばネパールの厚生労働省等の機関に直接出向き、介助制度の必要性を訴え、テレビ局や新聞社等のマスコミに対して情報のバリアフリーを要望した(写真3)。約50人のメンバーで各所を訪れ、自分たちの思いを伝えていると、ネパールの国営テレビで放映されている手話ニュースが週1回から毎日の放送になった。今までなかったバリアフリーや障害者について伝える番組を作ってもらえることが決まった。また、今回の「ASIA TRY」は、ネパールの多くのメディアに取り上げられ、不特定多数の国民に障害者のことを伝える機会となった。これらはネパールがバリアフリーな社会へと変わる大きな第一歩になると同時に、「ASIA TRY in Nepal」の大きな成果となった。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真3はウェブには掲載しておりません。

「ASIA TRY in Nepal」に参加していたネパールの当事者は、貧乏で生活が大変なはずなのに誰よりも前向きでパワフルであった。そのような方々との出会いは、私を変えた。今までの私は、「誰かがやってくれるだろう」という気持ちがあった。でも、修行研修と「ASIA TRY」を終え、自分で物事をしっかり考えて行動すれば、周りの状況が変わることを実感できた。これからの自立生活運動を引っ張っていくのは、私のような若手になると思う。「誰かがやってくれるだろう」ではなく、「まず、自分がやる!」という気持ちで、今後、日本で活動をしていきたい。

(かずやたけし メインストリーム協会)