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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年6月号

列島縦断ネットワーキング【宮城】

障害のあるなしに関係なく地域で生活できる仕組みを「みんな」で作ろう
~NPO法人なりわい舎の取り組み~

土井博貴

私たちの理念

『障害があってもなくても、地域でしっかりと自分らしく生活できる仕組みづくりを目的として、生業(なりわい)活動や地域奉仕活動を通し、大人も子どもも障がいがあってもなくても一緒に汗をかき、お互いを認め合いながら「いい経験したな~」「今日も1日頑張って働いたな~」と感じながら生き生きと生活していける仕組みや仕事を「みんな」で作っていく』

不自由とは

私は、介護支援専門員として、主に在宅高齢者の方々に関わる仕事をしていました。20歳のころから高齢者福祉の道に進み、自分としては自分にあった職業に就けたと思っていました。しかし、胸の中では何とも言いようのない漠然とした不安感を抱えていました。仕事を終え自宅に帰り、子どもたちを風呂に入れ、夕食と晩酌を一緒に済まし、ホッとしたところで庭に出て、タバコをふかすのが日課のようなものでした。

私の住んでいるところは、宮城県の田舎の山の中なので、晴れた日の夜には、星がきれいに見えました。夜空に輝く星たちを見上げながら思うことは、いつも同じことでした。

「あいつは俺たちがいなくなった後、幸せに暮らしていけるのだろうか…」「あいつの将来のために自分が今のうちに何かやっておけることはないだろうか、このままの仕事を続けていてよいのだろうか」。「あいつ」とは、当時小学生だった息子のことです。

息子は超低出生体重児で生まれ、脳性まひの後遺症があるいわゆる「不自由な子ども」。そのため、車いすやさまざまな福祉用具の使用と介助を受けて日常生活を送っていました。そんな漠然とした不安感を抱く日々が3年ほど続いたころ、あの日が来ました。

「東日本大震災」。あらゆるライフラインが止まり、普段の生活を送ることができませんでした。私は土鍋と薪で、ご飯を炊くことがなかなかできませんでした。そこにいたのは手足が五体満足だけど「不自由な大人」でした。そんな時、私が目にしたのが、ライフラインが止まった不自由な環境下でも地域の人たちと協力し合い、困っている人には手を差し伸べ、保存食を分け合い、飲料水以外の必要な水は井戸水を使い、たくましく生きている地域の先輩方でした。しかし、当時はそんなことを感じる余裕はなく、そのことを思い出すことができたのは約1年後、冷静に震災を振り返ることができるようになった頃でした。

なりわい舎の誕生

将来の不安感、そして、震災中の体験を考えながら車を運転している時、カーラジオから「なりわい」という耳慣れない言葉が聞こえてきました。それは、ただ単にお金を稼ぐだけの生き方や仕事ではなく、しっかりと生きていくための知識と技を身に付けること。つまり、「現代人が継承できていない古きよき時代の日本人の人間力を身に付けていくことが大切」というものでした。私は「これだ!!」と身震いしたのを今でも覚えています。そして私は、日本伝統の知恵と技を障害の有無に関係なく老若男女みんなで継承し、その中で仕事を生み出していこうと決めました。

早速、地域の仲間に相談してみました。仲間の中には障害児の親も、そうでない親も、子どもが成人して手がかからない親などもいました。仲間たちも私の思いを理解してくれ「なりわい舎」が平成25年2月に誕生しました。

私たちが活動していく上で、大切にしていくことを三つ決めました。それは「地域に理解してもらうこと」、「無理なく活動に参加すること」そして、「楽しくやっていくこと」でした。初めて行なった事業は毎月第2と第4の日曜日、朝9時半からの地域のゴミ拾い活動でした。大人も子どもも障害の有無に関係なく一緒にゴミ拾いをしました。車いすを押したことがない大人や子どもが交代で車いすを押しました。手足が不自由でゴミが拾えない子どもは、車が通るたびにみんなに気を付けるようにと、笛を吹いて合図する係を担当しました。自閉症で見通しがつかないと不安になる子どもも、回数を重ねるごとに一緒にゴミ拾いができるようになりました。そして、周りの子どもも自然にその子どもを理解していきました。

また、純真無垢な子どもたちは「どうして歩けないの?」とストレートに聞いてきました。その都度、丁寧に教えました。そんな光景を見て私たちは、ゴミ拾いをする過程で、お互いを知り、尊重しあうことができることを実感しました。ゴミ拾い活動は現在も続いており、毎回25人ほどが参加しています(写真1)。地域の方にもだいぶ認知していただき、平成28年3月には、東松島市教育長から感謝状をいただきました。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真1はウェブには掲載しておりません。

ほかには、山から竹を切り出して竹馬作りや木工作業、地域の方から無償で畑を貸していただき、地域の先輩に教わりながら野菜作りや梅干作りを行いました。採れたての野菜を畑の脇で芋煮にしてみんなで食べた時は本当においしかったです。乗馬も、キャンプも、手作りの臼と杵で餅つきなどいろいろなことをしてきました。決して障害当事者だけの集まりではなく、誰もが参加できる楽しいことをしていこうと思っています。その方が自然と障害の理解が広がっていくからです。その活動内容は、ホームページに活動日記としてアップしていますのでよろしければご覧ください(写真2と3)。
※掲載者注:写真の著作権等の関係で写真2と3はウェブには掲載しておりません。

ヒマワリ畑計画

最近、取り組み始めたのは、将来の仕事を生み出すことです。まず手始めに、地域内にある老人介護保健施設敷地内の広大な草原を無償で貸していただきました。そこにヒマワリ畑を作るのです。きれいな花を夏にみんなで楽しむのはもちろんですが、そのヒマワリの種を食用としてネット販売しようと考えています。外国産が多い中、国産の殺虫剤を使用しない食用種を販売して収入を得る実験をしています。

私たちが住む宮城県東松島市大塩地区は、里山が残る自然豊かな地域です。しかし、これといった特産がなく、加えて限界集落といわれている地域です。そのため、耕作放棄地が増え続けています。そこで、耕作放棄地を順次ヒマワリ畑にして将来的には「大塩地区といったらヒマワリがある」と言われる地域にして、それを柱とした六次産業化を進め、あわせて「なりわい」を体験習得できる体験観光スポットにしていきたいと考えています。そこでは、障害があってもなくても楽しめるような配慮をしていきたいと考えています。そして、障害があっても自分の能力に応じてしっかり働けるような合理的配慮を行い、雇用を生み出し、居住環境も作りたいと考えています。

障害があってもそれぞれの得意なことや好きなことを見出し、一連の仕事内容を分割した上で、みんなで協力し、仕事を完成させる。それを学ぶために現在、私は仕事を辞め、障害者の多機能型通所施設で勤務し修行をしています。なりわい舎との二足の草鞋(わらじ)です。

夢物語のような感じもしますが、今日の日本があるのは、人生の先輩方が途方もない夢に向かって夢中で汗をかいて、がむしゃらに活動されたおかげでもあると思います。だから私たちも、みんなで大きな夢の実現に向かっています。子どもっぽいかもしれませんが、何だか心がワクワクするのです。

最後に

先日、中学生になった息子に「お前は生きていて楽しいか」と聞きました。息子は「生きていて楽しい」と答えました。息子は、自分を不自由な人間だとは思っていませんでした。

不自由とは何でしょうか?物がないと不自由なのでしょうか?私は、息子から、そして震災から、その問いのヒントをもらったような気がします。人は生きがいを持ち、人に助けられ、それぞれのできる範囲で人のために活動する。それだけでも十分心豊かに生きられるのではないかと思うようになりました。

みんなで行う「なりわい活動」の過程を通して、障害への理解が深まり、少しずつ仲間が増えています。結果も大切ですが、その過程を一緒に過ごした経験と絆は一生の宝物です。これからもみんなで地道に楽しく活動し、時々失敗しながら人生を楽しんでいきたいものです。

(どいひろき NPO法人なりわい舎代表)


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