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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年8月号

文学やアートにおける日本の文化史

盲人と創作活動
―吉成稔「杖」を読む

佐藤健太

日本点字図書館とハンセン病療養所の盲人たち

衣食住は国に保障されている人たちですから、時間的余裕はけっこうありますので、いろいろな趣味のグループ活動があり、特に短歌や俳句が盛んでした。それゆえ、その方面の図書の貸出しを懇望されるのですが、病気の性質上、一般盲人と共通に貸し出すことには問題もあります。この点で、心の痛みを感じていた時だけに、この申し出には、職員がみな張切りました。1)

日本点字図書館(以下、日点と略記)創設者・本間一夫(ほんまかずお)の自伝『指と耳で読む』の一節である。1955年に始動したばかりの日点の一部署である点字出版部に、1957年2月末、厚生省医務局療養所課からひとつの依頼がきた。全国11か所の国立ハンセン病療養所の盲人たちのために、国の予算で点字図書を贈りたいから協力してほしい、という依頼だった。年度末の3月31日までに3百冊の点字図書を厚生省に納めなければならない。本間たちは昼も夜もなく、休日も返上して納期に間に合わせたという。

盲人の文化向上のために尽力した本間たちの熱気あふれる活動が、よく伝わってくるエピソードだ。しかし「病気の性質上、一般盲人と共通に貸し出すことには問題もあります」という一文から、当時の日点がハンセン病療養所の盲人たちへの点字図書貸し出しには応じていなかったことが浮かび上がる。当時は、特効薬であるプロミンによってハンセン病が「治る病」となった過渡期にあたる時期であった(プロミンによって病勢が悪化した者も存在した)。

1955年に長島愛生園の盲人会(1952年に結成された「杖の友会」を改称)は、日点へ点字図書の貸し出しを求めたが、「社会一般の通念がまだ癩患者に点字図書の貸し出しを許すまでに至っていない」2)という返事だった。講習を受け点字を習得し、読書意欲に燃えていた愛生園盲人会のひとびとは、点字図書の必要性と需要を各方面に訴えるようになる。このときの盲人会会長が吉成稔(よしなりみのる)であった。

吉成稔というひと

吉成稔(1920~1967年)は神戸市生まれ。県立中学校を2年で中退し、1937年に長島愛生園へ入った。入園後まもない頃から創作に手を染めるようになり、1941年には親友の宮島俊夫(みやじまとしお)、甲斐八郎(かいはちろう)らとともに長島創作会を設立した。創作会は愛生園の機関誌『愛生』が1944年7月に廃刊になったこともあり解散する。創作会が長島文学会として立て直されるのは敗戦翌年の1946年である。

戦時下の療養所における過酷な暮らしは、吉成稔・良子(よしこ)夫妻に大きな苦難を強いた。まず妻の良子が失明し、戦後に入り吉成の視界も暗闇に閉ざされてしまった。長島文学会の結成は吉成が失明して後のことであった。同会結成に際しての会合に参加した吉成は「おれは会員にはなりえない。第一おれは書くということができないじゃないか、なぜ盲目の分際でこの会合にのこのこと出て来たのだろうか」と「落伍者としての孤独感」3)を深めていく。妻の良子は失意に沈む吉成を励まし、彼女と吉成の弟・弘(ひろむ)が口述筆記を担当して、彼の創作活動を支えた。彼が遺した随筆などを読むと、療養所の機関誌ばかりではなく、『文學界』などの一般文芸誌にも投稿を行なっていたようである。4)

精神を支える杖として

本稿では吉成稔の短編小説「杖」5)を取り上げたい。吉成の自伝である『杖の音』や信仰の書『見える』などと照らし合わせて彼の遺した小説を読むと、そのほとんどが自身と妻を主人公に据え、その周囲に弟の弘や創作仲間である宮島俊夫らが配置された私小説であることがわかる。モデルである吉成とその弟、宮島らの名前は作品ごとに異なるが、妻の良子は英子という名前で登場することがしばしばである。

「杖」は主人公である龍之介、妻の英子、龍之介の弟・弘志が登場する。龍之介は半年前に失明したばかりで、夫婦ともに盲目となった状態に耐えきれず無為の日々を過ごしていた。そんな龍之介に英子は杖をついて歩く稽古を提案するが、なかなか思い切れない。そんな龍之介に、英子は「なぜかごの中から出ようと努力しないのよ」と問いかける。眼科病室に入室した龍之介のもとに、すでに盲目となっていた英子が杖をついてたずねてきた時の毅然とした姿を彼は思い出す。弘志が杖をつくってくれることになり、英子とふたり連れ立って園内を歩いてみようと決心する。

龍之介はとても自尊心の高い男として描かれている。

(前略)生と死の谷間をのぞいたからであり、それを乗り越えることの恐しさを身をもって感じたからで、彼は死ねもしないのに自殺のまねをした自己を蹴り上げてやりたいと思うほど、羞恥を覚えた。それからの彼は、のろまな自己の肉体に絶えず侮辱されつづけてきた。が、自分でそんな自分がどうにもできず、ただやっかい者以外のなに者でもないと思われる自分をもてあましてきたのであった。5)

英子の杖にすずを結びつけ、先を歩くそのすずの音を頼りに龍之介は歩いていく。彼は杖に集中していくが、近寄ってくる下駄の音が聞こえてきたとたんにあわててしまう。

杖を放りだしてどこかに隠れてしまいたいような衝動が、身内をつきあげた。いつか英子も立ちどまっていた。男の高い下駄の音がそのときふたりとすれちがった。その音は少し行き過ぎて、まるで地面に吸いこまれでもしたかのように消えた。さては立ちどまって振り返っているのだな、と歩きかけていた彼は、羞恥を超えた怒りの伴う悲哀を覚えていた。5)

杖をついて歩こうという決意が、たった一人の男と行き会っただけでぐらついてしまうことに龍之介は腹立たしさを覚え、杖で地面をたたいてしまう。落ち着きを取り戻し、再び英子に導かれながら、彼女が3か月もの間この道を歩いて眼科病室へきたことを思い出し、そのときの映像が脳裏をひらめく。

少しずつ龍之介の杖も上達してゆき、「地面に鳴る自分の杖の音が、英子の杖の音と合致して、一定のリズムをかもしだしている」ことに気づく。それは龍之介には「彼の胸に昨夜から生じてきた希望の伴奏」のように聞こえた。昨夜、弘志が小説の清書を引き受けてくれて、彼は久しぶりに創作に打ち込んだのだった。

龍之介は「ただ肉体を運ぶ杖をつくだけではだめだ。精神を支える杖を探さねばならない」と考えている。龍之介にとって、すなわち著者である吉成稔にとって、それは文学にほかならなかった。失明したハンセン病者にとり、創作することははなはだ困難を伴う営みだった。さいわい吉成には妻と弟という協力者が存在した。ふたりが口述筆記や清書を担当することで、吉成の創作活動は可能となったのである。しかし、その共同作業は補助者である2人に大きな負担を強いるものであった。

夜中に私は、あす書く文章を、脳裏の黒板に書いたり消したりして刻みつけた。しかしそれほど考えて下書きをしていても、さて清書となると、けっしてスムーズには運ばなかった。文章を入れたり、削ったりして訂正しなければならなかったからだ。それで弟がいらだつ、その反射で私もいらだつ。そして2人の間に焦燥感のキャッチボールがはげしくなる。そんな時、私は書くという目的を離れて弟の態度に神経をとがらせた。6)

龍之介が聞いた「希望の伴奏」は、妻と弟の存在なしでは鳴りはしなかっただろう。文学しかよすがのない吉成は、自分の身勝手さや自尊心が打ち砕かれる様を、龍之介を主人公に据えることで客観的に見つめ直して作品に刻み込む以外、妻と弟に報いることができなかったのではないか。こうした創作者の姿は、ハンセン病療養所の書き手のひとつの典型を示している。

(さとうけんた ハンセン病文学読書会主宰者)


【参考文献】

1)本間一夫『指と耳で読む 日本点字図書館と私』(岩波新書、1980年)

2)吉成稔「ハ氏病盲人の訴え」吉成稔『きもの 癩園小説と随筆』(社団法人日本MTL、1969年)所収

3)吉成稔『杖の音 極限の中の愛』(新教出版社、1977年)

4)吉成稔『見える 癩盲者の告白』(キリスト新聞社、1963年)

5)吉成稔「杖」前掲吉成『きもの』所収

6)前掲吉成『見える』

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