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「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2016年9月号

「生きにくさ」を抱えた人たちの支援
~孤立からの脱却

赤平守

はじめに

早いもので、いわゆる「触法障害者」と呼ばれる人たちとの出会いを繰り返して20年近くの歳月が過ぎた。その間、東京都地域生活定着支援センター長等を歴任しながら全国の刑務所、少年院を通じて彼らの社会復帰につなげるための支援、相談に携わった人数は、下は13歳から上は90歳まで300人を超えた。すべてが何らかの障害と「生きにくさ」を抱えた人たちである。

この特集記事の原稿依頼を受けた後の構想中に、相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」での戦後最悪とも思える残虐な殺傷事件が起きた。その直後から、報道等では事件と障害者福祉にまつわる関連性が論じられている。事件が社会に与えた衝撃の強さからしても、その検証は長期間に渡るであろうし、安易に犯罪対策や予防策に結論が導かれてはならないと思う。

ただ、特にここで誤解していただきたくないのは「障害者は罪を犯しやすい」とか「障害と犯罪には因果関係がある」ということは決してないということである。確かに、受刑者の中に知的障害を疑われる人が多いという実態は、今回の法務省矯正局・保護局からの報告からも分かることではあるが、犯罪に人が手を染める時、また、そうせざるを得ない状況に追い込まれる時、そこに起因する要素は決して一つではない。その人が犯罪行為に直面するまでには、人間関係や人生にまつわる複雑な要素が絡み合っているのだということを理解しなくてはならない。そのことを念頭に書き進めていきたいと思う。

成育歴から見る要素(生まれた瞬間からはじまる“生きにくさ”)

私の元へ来る「触法障害者」と呼ばれる人の相談ケースは実にさまざまであるが、特に刑務所や少年院などの矯正施設から相談の場合、「身上書」と呼ばれる本人の犯罪歴や成育歴を事細かく記した資料に目を通すことになる。そこに記されている事柄を検証してみると、以下のような成育歴の中での4つの大きな要素が見えてくる。

1.貧困と無知(社会状況・福祉情報を知る心の余裕と術(すべ)を持つことができない)

基本的に障害者福祉のサービスは申請主義である。生活そのものに追われる状況の中で、福祉の情報が必要な時に家族に届く可能性は極めて低く、全く福祉に関しての知識をもてない、わが子の障害に気づかぬ家族、さらに障害がありながらも手帳を持たない子ども(障害福祉のサービスとは無縁のままに成長する)が決して珍しくはない現状がある。

2.家族関係の崩壊(障害の否定と無理解、虐待、ネグレクト)

障害という言葉自体の持つイメージは、家族にとって即座には受け入れがたいものがある。特に、中・軽度の知的障害や軽度発達障害は、家族が気付き、障害と結びつけて受け入れることが難しく、本来、無条件に心身ともに委ねられる存在であるはずの親から、出来の悪い子、親の言うことを聞かない子などと疎んじられ、虐げられ、育児放棄等によって、子どもが子どもらしく育つことができない幼少期を過ごすことがトラウマになってしまうことも多々ある。

3.いじめ、虐待、偏見、差別(無能な者、弱者として不当に底辺に位置づけられる)

家族関係だけでなく、本来、学校生活の中で友人との対等な関係の中から育まれるはずの当たり前の社会性、関係性を育むことができずにいじめや虐待の対象となるケースが少なくない。そのような経験の中、自分を守るため、不当に低く位置づけられたとしても、受け入れなくてはならなくなり、自分に自信が持てず、さらにはいじめられることすらも「自分が悪いから」と自己否定にまで至ることも多い。

4.本人の障害(認識、社会性の発達の遅れ)

1~3の要素にあわせて、本人の認識性、社会性の発達の遅れが、社会生活力を高める力をさらに弱めてく。知的障害や発達障害の人たちの障害とは、コミュニケーションの障害、自分自身を上手く相手に伝えられない障害でもあり、そのことによって、周囲の誤解の渦にさらされながら成長していく。しかも、これらが「本人の意思とは関係なく起こってしまう」ということ、さらに、そのことを家族や周囲の関係者、本人も気づかぬままに「長年にわたって放置される」ことが最大の問題と考えられる。

生きにくさの連鎖

前項に挙げた成育歴での要素は、とりわけ少年をイメージされるのではないかと思うが、言うまでもなく年齢を重ね成人になれば、原則的には少年法で裁かれていた立場が、刑法で裁かれることになる。少年院は家庭裁判所の審判により、保護処分として矯正教育を受ける場所である。よって世間でよく言われる前科がつくことはない。しかし、満20歳を超えた時点で、たとえば同じような窃盗の罪に問われたとしても、刑法犯として裁判において実刑判決を受ければ、刑事罰を受ける刑務所(刑務所内にも改善指導という教育プログラムはあるが)に送られることになる。

社会の一員としてゼロ時点に立つ少年期に、マイナス地点におかれることは過酷なことである。しかしそのまま、成長過程に必要な教育や人とのつながりを体験できないままに成人期に至ることはもっと残酷である。そのような状況下で引き起こされる犯罪を「社会経験の乏しさ」に起因するという考えもあるが、私はそればかりでなく、彼らが前項のような「しなくてもいい経験」を強いられたことの方が根深いことだと思っている。貧困や虐待や差別という状況だけが人を変えていくのではなく、そこから生まれる絶望感や無力感、疲弊感といったさまざまな感情と置かれた状況こそが彼らを社会から孤立させていく。その状況が長引くほど彼らの「生きにくさの連鎖」が絡み合っていくのではないかと思う。

何度も同じように罪を重ねる彼らが「反省していない」「学習しない」と断ぜられる状況を幾度となく見てきた。彼らの人生とその周囲の無関心は「尊厳」という感覚すら消し去っているのかもしれない。

生きにくさの連鎖
図 生きにくさの連鎖拡大図・テキスト

当たり前のことですが

まず、累犯障害者と呼ばれる人たちが、常に次の犯罪を考えているということは断じてない。他人と違うことより共通点の方が多いし、普通に暮らしている時間の方が圧倒的に長いのだ。そして、安心して暮らしたいと人一倍願っていることもまた確かなことだ。障害と犯罪というフィルターを重ねて見たら、その人の実像はぼやけてしまう。自分との違いではなく、同じ人間としての共通項を見ていかなければ、対等な人と人の信頼関係は生まれないだろう。

次に、手段と目的の逆転を見過ごしてはならないということである。彼らを受け入れようとする支援者の中には「再犯しないことを目的にしましょう」という方々が多いが、再犯するか、しないかは結果である。長年、福祉とは無縁のまま、阻害されて生きてきた人たちが、何の問題もないままに安住することはまずないといっていい。どんなに優しく説明されても、知らないことには不安がつきまとう。不安が解消され、さらに安心感を得られるにはかなりの時間が必要である。それは、受け手となる支援者にしても同様である。暗中模索の連続である。本人を孤立させてはいけないように、支援者もまた孤立させてはならない。長年、生きにくさを抱えて受刑生活まで送った人たちにとっては、その重みを超える、新たな関係性を築き、手放したくない「生き場」を得た時、初めて「再犯しない」人生が始まる。そうやって、お互いの関係性は変化していくのだということを認識すべきである。

彼らを理解するためには、それなりの専門性や知識が必要なことは間違いない。しかし専門性を優先する余りに、支援そのものが特異分野として位置づけられ、その結果、国民全体の不作為を生むのだとしたら、本末転倒でしかない。今こそ、彼らを知る人たちが彼らの「生きにくさの真実」を正しく伝えていかねばならないだろう。

「特別な人による、特別な人に対しての、特別な支援」から「特別な」を取り除き、誰もが向き合える「人による、人に対しての支援」そして「やりなおしができる社会」が当たり前になることを切に願う。

(あかひらまもる 日本障害者協議会理事)